こんばんわニャンコです。
「麒麟がくる」では来週ついに足利義昭が織田信長の協力を得て京都へ上洛し、室町幕府の将軍として就任するようです。
このように足利義昭と織田信長の関係は良好でしたが、京都で足利義昭が将軍になった後、すぐに仲が悪くなってしまい、次第には対立するようになってしまいます。
なぜ足利義昭と織田信長は仲が悪くなってしまったのでしょうか。
今回はこの点について歴史に詳しくないニャンコが分かりやすくまとめてご紹介していきたいと思いますので、ご覧ください。
足利義昭と織田信長の仲ははじめは仲良しだった!!
足利義昭と織田信長はとっても良好な関係を築いていました。
「麒麟がくる」でも、織田信長が美濃へやってきた足利義昭を温かく迎えています。
また織田信長は足利義昭が京都に帰って室町幕府を復活させたいとの願いをかなえる為、徳川家康や浅井長政ら同盟者を引き連れて、三好三人衆や近江の六角家などを倒し、京都周辺を平定しています。
このことから足利義昭と織田信長の関係は良好な関係を築き、仲良しでした。
ですが、二人の仲は次第に悪くなっていきます。
どうして足利義昭と織田信長は仲が悪くなってしまったのでしょうか。
足利義昭と織田信長の仲が悪くなった原因は性格??
足利義昭と織田信長は仲良しな関係が続き、足利義昭が室町幕府の将軍に就任してからも、二人の関係は良好でした。
しかし足利義昭が室町幕府の将軍になってから一年後、織田信長との仲が悪くなってしまいます。
足利義昭と織田信長の性格が合わなかった事が原因で仲が悪くなってしまったのでしょうか。
もちろん足利義昭と織田信長の性格の不一致が原因で、仲が悪くなったのかもしれませんが、それだけではありません。
足利義昭と織田信長は将軍就任から一年後に対立⁉
織田信長は足利義昭が室町幕府の将軍になったのを見届けてから京都を去り、伊勢(いせ)の大名・北畠(きたばたけ)氏を倒す為出陣します。
織田軍は北畠氏の各地の城を落しながら、北畠氏の本拠地である大河内城を包囲。
しかし北畠氏の本拠地である大河内城は織田軍の攻撃を受けてもびくともせず、城を武力で落とすことは出来ませんでした。
そこで織田信長は室町幕府の将軍である足利義昭に「北畠氏が降伏するように仲介してくれないか」と要請。
足利義昭は織田信長の要請に応えて、北畠氏へ「織田家に降伏するように」と使者を出します。
北畠氏は足利義昭のお願いを聞いて、織田信長に降伏。
こうして織田家と北畠氏の戦いは終わりを迎え、織田信長は足利義昭に戦いの勝利報告を行うため、京都へ出向きます。
足利義昭は織田信長を出迎え、仲良くお酒を飲んで宴を行おうと考えていましたが、数日程で織田信長が勝手に本拠地である美濃へ帰ってしまいます。
足利義昭はビックリして織田信長の後を追うつもりでしたが、その頃にはすでに織田信長は京都から去っていました。
なぜ織田信長は足利義昭に一言も言わずに京都を去ったのか。
それは織田信長が足利義昭と意見が対立し、怒っていたからです。
なぜ織田信長は足利義昭に怒ったのか。
それは織田信長が北畠氏に次男・織田信雄を養子に入れて、北畠の勢力を織田家に取り込んだことが原因です。
足利義昭は自分の許しを得ないで、織田信長が勝手に北畠氏の勢力を自家へ取り込んだ行動に対して批判。
織田信長は足利義昭の批判に激怒し、勝手に京都を去ってしまったのでした。
そしてこのことが原因で、二人の仲はどんどん悪くなってきます。
ニャンコのまとめ
今回は足利義昭と織田信長の仲が悪くなった原因についてご紹介しました。
ここからは今回の記事のまとめをしていきたいと思います。
「麒麟がくる」足利義昭と織田信長は仲良しじゃなかった!!足利義昭と織田信長の仲が悪くなった原因をご紹介!!
- 足利義昭と織田信長の二人は最初は仲良しだった!
- 足利義昭と織田信長の仲が悪くなったのは性格の不一致ではない
- 足利義昭と織田信長の名が悪くなった原因は北畠氏の対応の仕方が原因
以上になります。
足利義昭と織田信長の関係性の変化を知っておくことで、「麒麟がくる」のストーリー展開をあらかじめ予習する事が出来ますので、お時間がある時にご覧になっていただければ幸いです。
それではまた次回の記事でお会いしましょう。
参考文献 信長と消えた家臣達 中公新書など
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