こんばんわにゃんこです。
今回ご紹介するのは織田信長を裏切った浅井長政と朝倉義景に関する事を取り上げたいと思います。
「金ヶ崎の戦い」で浅井長政と朝倉義景は織田信長を追い詰め、織田軍に勝利しました。
しかし浅井長政と朝倉義景は「金ヶ崎の戦い」より大きな戦果を織田信長から挙げていた事を皆さんご存知でしょうか。
今回は浅井長政と朝倉義景は「金ヶ崎の戦い」以上の戦果を挙げた事について、歴史に詳しくないニャンコが、分かりやすくご紹介していきたいと思います。
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浅井長政と朝倉義景が織田軍に大勝利!?
浅井長政と朝倉義景は「金ヶ崎の戦い」で織田信長に勝利を得ますが、「金ヶ崎の戦い」よりも大きな戦果を挙げていたのを皆さんご存知ですか。
浅井長政と朝倉義景が「金ヶ崎の戦い」よりも大きな戦果を挙げた戦は「志賀の陣(しがのじん)」と呼ばれる戦いです。
この戦いで浅井長政と朝倉義景は織田軍に大勝利し、大きな戦果を挙げました。
さて浅井長政と朝倉義景は「滋賀の陣」で織田軍にどのようにして勝ち、一体どのような戦果を得る事が出来たのでしょうか。
織田軍のスキを突く!!
織田信長は「姉川の戦い」で浅井長政と朝倉義景に勝利を得ると、阿波(あわ)から大軍を率いてやってきた三好三人衆や織田軍に敵対した本願寺勢力を倒す為、自ら軍勢を率いて出陣。
浅井長政と朝倉義景は織田軍が三好三人衆や本願寺勢力を倒す為に南方へ出陣した事を知って、3万程の軍を率いて出陣。
浅井長政と朝倉義景は織田家の重要拠点の一つである近江(おうみ)・宇佐山城へ攻撃を行います。
この戦いで浅井長政と朝倉義景は大きな戦功を挙げることになります。
戦果その1:織田家の重臣・森可成を討ち取る
浅井長政と朝倉義景は宇佐山城を手に入れる為、1000人が籠城している城へ3万以上の兵士を率いて、がむしゃらに攻撃していく事にします。
しかし宇佐山城を守っていた織田家の重鎮である森可成は宇佐山城に500人の兵士を籠城させ、自ら残りの兵数を率いて出陣。
そして森可成は浅井長政と朝倉義景の連合軍に向かって何度も突撃し、浅井・朝倉連合軍を退ける事に成功します。
浅井長政と朝倉義景率いる軍勢は森可成軍の攻撃を受けて退きますが、再度軍勢を整えて出撃してきた森軍へ激しい攻撃を行い、森可成を討ち取り、大きな戦果を挙げることに成功するのでした。
比叡山延暦寺に登る連合軍
浅井長政と朝倉義景は宇佐山城の攻略を諦めて、山科・醍醐(だいご)などの地域を焼き討ちしつつ京都へ到着します。
織田信長は森可成が浅井・朝倉連合軍に討ち取られた事や京都を浅井・朝倉連合軍が占領した事を知って、三好三人衆や本願寺との戦いを切り上げ、京都へ向かって進んでいきます。
浅井長政と朝倉義景は織田信長が三好三人衆や本願寺との戦いを切り上げた事を知って、今日を放棄して、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)へ全軍を率いて登ります。
織田信長の反撃
織田信長は浅井・朝倉連合軍が比叡山延暦寺へ登った事を知り、軍勢を率いて比叡山延暦寺を包囲します。
織田信長は比叡山延暦寺を包囲すると、僧兵に「比叡山の人々は浅井長政と朝倉義景に味方するのをやめてほしい。もしやめてくれれば、あなたたちの寺領を全て返します。
またどうしても浅井長政と朝倉義景に味方する事がやめられないのであれば、せめて中立の立場をとってほしい。
もしこれらが叶えられないなら、比叡山全部燃やしてやる」とお願いと脅迫を織り交ぜた手紙を送ります。
ですが、浅井長政と朝倉義景に味方する比叡山延暦寺は織田信長の手紙を無視。
織田信長は比叡山延暦寺が手紙を無視した事を知ると朝倉義景へ「山から下りて来いよ。この臆病者!!」と挑発。
朝倉義景は織田信長から送られてきた手紙を見て大笑いしながら破り捨ててしまいます。
こうして織田信長は打つ手が無くなってしまいますが、岐阜と京都を結ぶ重要拠点で浅井長政と朝倉義景に奪われた堅田の地に住む豪族達が、寝返りを約束してきた事を知り、軍勢を派遣して手詰まりの状況を打破するべく動き出します。
戦果その2:織田家の武将を討ち取り、織田軍との戦で勝利
浅井長政と朝倉義景は織田信長の本拠地である岐阜城と京都を繋ぐ重要拠点である・堅田の地を占領していました。
朝倉義景は堅田の地を奪い返す為、織田信長が軍勢を出陣させた事を知り、堅田の地を守るため大軍を出陣させます。
こうして堅田の地を巡って朝倉軍と織田軍が激闘を繰り広げることになります。
少数の織田軍は大軍である朝倉軍の激しい攻撃を受けて壊滅。
織田軍を率いていた坂井政尚(さかいまさなお)が討ち死にしてしまいます。
こうして織田軍は堅田を奪い返す事ができず、坂井政尚を討ち死にさせてしまう損害を出してしまうのでした。
そして朝倉軍は織田信長の武将を討ち取った事により、兵士の士気を高め、朝倉軍を率いた武将達はドヤ顔で比叡山延暦寺へ帰っていくのでした。
諦める織田信長
織田軍はなすすべもなく浅井長政と朝倉義景が籠っているダラダラと比叡山を包囲してきます。
織田信長は比叡山延暦寺を包囲して数ヶ月が経過し、ついに浅井長政と朝倉義景の連合軍との戦いを諦め、講和へ向けて動き出します。
織田信長は朝廷と足利幕府の将軍である足利義昭(あしかがよしあき)を動かして、浅井長政と朝倉義景へ戦をやめてくれるようにお願い。
この織田軍と浅井長政と朝倉義景の連合軍の講和交渉の仲介役として「麒麟がくる」にも登場している二条晴良が活躍。
二条晴良の活躍によって織田軍と浅井長政と朝倉義景連合軍との講和が成立し、戦に終止符が打たれることになります。
戦果その3:完全勝利で戦を終える
浅井長政と朝倉義景は織田信長の講和を受け入れて、戦をやめて比叡山を下ってそれぞれの領地へ帰っていくのでした。
この戦で浅井長政と朝倉義景連合軍は織田家の武将を多く討ち取り、織田信長に対して不利な講和条件を突きつけて、講和をさせることに成功しました。
この為、志賀の陣における浅井長政と朝倉義景の連合軍は織田軍に対して完全勝利で幕を閉じたと言えるのではないでしょうか。
ニャンコのまとめ
今回は「金ヶ崎の戦い」以上に戦果を挙げることに成功した「志賀の陣」についてご紹介しました。
歴史にもしは禁句ですが、もし浅井長政と朝倉義景の連合軍が織田信長が提示した講和に目もくれずに戦を継続させていればいったいどうなったのでしょうか。
ニャンコの予想ですが、織田家が滅亡していたかもしれません。
その証左として、織田軍が比叡山延暦寺を包囲していた際、長島の一向一揆衆が織田家に敵対し、織田家の領地へ攻撃をしています。
更に三好三人衆や本願寺軍も北上して京都を占領し、比叡山延暦寺を包囲している織田軍へ攻撃を仕掛ける事が出来ました。
三好三人衆や本願寺が比叡山延暦寺を包囲している織田軍を攻撃し、比叡山延暦寺に籠っている浅井・朝倉連合軍が延暦寺を降りて攻撃を行えば、本拠地と分断されている織田軍を壊滅させる事が出来たのではないでしょうか。
そして君主である織田信長を三好三人衆・本願寺・浅井・朝倉連合軍が討ち取れば、岐阜城を簡単に攻略する事が出来たかもしれません。
また織田信長が三好三人衆・本願寺・浅井・朝倉連合軍の攻撃を受け、討ち取られなかったとしても、戦力を大きく減らすことになり、壊滅的な損害を受けることになったでしょう。
そうなれば、織田信長が岐阜へ帰ったとしても三好三人衆・本願寺・浅井・朝倉連合軍を退ける事が出来ず、結果的に滅亡していたかもしれません。
このように考えると浅井長政と朝倉義景は織田信長と講和しないで、戦を継続させていたほうが良かったのかもしれませんね。
今日のまとめ
ここからは今回の記事のまとめをしてきたいと思います。
「麒麟がくる」浅井長政と朝倉義景は「金ヶ崎の戦い」よりも大きな勝利を織田信長からもぎ取っていた!?まとめ
- 浅井長政と朝倉義景は「志賀の陣」で「金ヶ崎の戦い」よりも大きな戦果を挙げていた
- 戦果その1:森可成を討ち取る
- 戦果その2:坂井政尚を討ち取る
- 戦果その3:織田信長に対して有利な条件で講和条件を引き出して、戦を止めさせた
以上になります。
このブログでは今回の記事の他にも
などの記事も紹介していますので、お昼休みや通勤途中などの隙間時間にご覧いただければと思います。
それではまた次回もこのブログでお会いしましょう。
参考文献 織田信長家臣人名辞典など
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