「麒麟がくる」浅井長政の家来には強い武将っていたの??浅井家のめちゃくちゃ強い武将をご紹介!?

2020年6月16日火曜日

織田家 麒麟がくる

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こんばんわ。

すっかりジメジメした梅雨の時期になりましたね。

ウチの編集長・ボス(ねこ)もクーラーの近くで涼んでいました。

さて今回ご紹介するのは「麒麟がくる」に登場するであろう浅井長政の家来達についてです。

織田信長には柴田勝家や明智光秀、羽柴秀吉など強くて有名な武将達が居ましたが、浅井家にも彼らのような武将達はいたのでしょうか。

そこで今回は浅井長政の家来達にも強い武将が居たのかリサーチしてみましたのでご覧ください。

浅井家三代に仕えた赤尾清綱

浅井家には果たして強い武将がいたのでしょうか。

webや本を漁ってみると意外と強い武将がいましたので、ご紹介していきたいと思います。

まずご紹介するのは赤尾清綱(あかおきよつな)です。

赤尾清綱は浅井家三代に仕えた人で、企業で言うと重役の位置する人物ですが、一体どのような人物だったのでしょうか。

ここでは赤尾清綱の事をざっくりとご紹介していきたいと思います。

浅井家は戦国大名として織田信長に滅ぼされるまで、近江(おうみ)を支配していました。

赤尾清綱は浅井家の初代・浅井亮政(あざいすけまさ)の時代に仕えます。

赤尾清綱は浅井亮政からの信頼され、小谷城(おたりじょう)を守る際に重要な拠点を任され、そこに住むことになります。

赤尾清綱は浅井亮政が亡くなると息子・浅井久政(あざいひさまさ)が浅井家の当主になりますが、戦国大名として頼りない人物でした。

しかし浅井久政の息子・浅井長政は長年敵対していた六角氏との戦で大勝利を果たし、戦国武将として優れていた才能を見せます。

赤尾清綱は浅井長政を浅井家当主にしようと考え、他の家来達を巻き込んで、浅井久政が小谷城から外出した時を見計らって、小谷城を占拠。

その後赤尾清綱は浅井久政を浅井家の当主から追い出して、浅井長政を浅井家当主にしてしまうのでした。

赤尾清綱は浅井長政をしっかりと補佐して織田家との戦にも参加して活躍していきますが、朝倉家が滅亡した際、浅井家も独力で織田家に勝つ事ができず、滅亡してしまいます。

赤尾清綱は小谷城が落城した際、織田軍に捕まり、織田信長の前で自害して亡くなります。

織田信長は自分に逆らい続けた者を許さない性格でしたが、赤尾清綱が君主に忠義を尽くして最後まで戦い抜いた功績を認め、彼の息子達を殺害しないで開放するのでした。

赤尾清綱はこのように浅井家三代に仕え、浅井家が滅びるまで君主に忠義を尽くした人物でした。

浅井長政のアドバイザー遠藤直経

遠藤直経は赤尾清綱と同じように浅井家の重役として活躍していた人物でした。

遠藤直経は浅井長政を幼い頃から良きアドバイザーとして信頼され、浅井家のライバルであった六角氏と戦う際、浅井長政へ色々なアドバイスを行い、勝利へと導いた人物です。

また遠藤直経は人を見る目に優れ、織田信長が優れた人物であると見抜き、織田信長と浅井長政が同盟する際、織田信長暗殺計画を立てて実行に移す為、浅井長政へ「織田信長を殺害するべきです」とアドバイス。

しかし浅井長政は遠藤直経へ「織田信長をここで殺害すれば、私の信用が無くなってしまう。だから織田信長を殺害するのは良くない」と止められたため、実行に移しませんでした。

もし遠藤直経の計画を浅井長政がOKしていれば、戦国時代の歴史も大きく変わったと思います。

その後遠藤直経は浅井長政と一緒に織田信長を倒す為、姉川の戦いに出陣。

遠藤直経は姉川の戦いでは浅井軍が織田軍の総攻撃を受けて敗北が確定すると、単騎で織田軍の陣営の中に突撃し、織田信長を殺害する為、接近します。

しかし遠藤直経は織田信長を殺害できず、途中で捕まり討ち取られてしまうのでした。

赤尾清綱・遠藤直経共に浅井家に忠義を尽くした人物でした。

まだまだ浅井家には彼らの他にも優れた武将達がいますので、ご紹介していきたいと思います。

浅井家の勇将として知られる磯野員昌

「石田三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」として有名な佐和山城(さわやまじょう)

佐和山城は元々浅井家が保有していた城でした。

そして浅井長政の時代、この佐和山城を守っていたのは磯野員昌(いそのかずまさ)と呼ばれる人です。

磯野員昌は浅井家のライバルである六角氏との最前線に位置する佐和山城主として、六角氏との戦いで活躍した武将でした。

浅井長政と織田信長は同盟することになりますが、両者の同盟も長続きせず、破綻してしまいます。

浅井長政と織田信長の同盟が決裂すると磯野員昌は織田軍の最前線の拠点となった佐和山城を鉄壁のディフェンスで織田軍の攻撃を何度も撃退。

磯野員昌は鉄壁のディフェンスだけでなく、攻めにも強い武将で、姉川の戦いの時には浅井軍の先陣を任され活躍しますが、姉川の戦いは浅井軍の敗北で終わってしまいます。

織田信長は姉川の戦いに勝利すると、磯野員昌が籠城している佐和山城へ攻撃を開始します。

しかし磯野員昌は鉄壁のディフェンスで織田信長の攻撃を撃退し、佐和山城を守り通すのでした。

磯野員昌は姉川の戦いから一年間、織田軍の攻撃から佐和山城を守り通しますが、食べ物が無くなってしまった事がきっかけで、織田信長に降伏。

その後磯野員昌は織田信長に仕える事になり、織田家でも浅井家と同様、軍事面で活躍していくことになります。

鉄壁のディフェンスで佐和山城を守り通す織田軍の攻撃から盛り続けた磯野員昌も、浅井家の勇将と言える人物ではないでしょうか。

浅井三将の一人・海北綱親

浅井家にはとっても優れた三人の武将が居ました。

一人目は以前紹介した赤尾清綱です。

そしてもう一人はここで紹介する海北綱親(うみきたつなちか)です。

海北綱親は赤尾清綱と同じく、浅井家三代に仕えた武将で主に戦場で活躍した武将です。

海北綱親は浅井長政の本拠地である小谷城が織田軍の総攻撃を受けて落城する際、逃げずに最後まで織田軍と戦い抜き、亡くなってしまいます。

羽柴秀吉は海北綱親の戦術の巧さにほれ込み「私の戦術の師は海北綱親です」と言わしめた人物でした。

浅井三将の一人・雨森清貞

近江(おうみ)伊香郡出身の雨森清貞(あまもりきよさだ)。

雨森清貞は上記で紹介した赤尾清綱・海北綱親と共に浅井家に仕えた人物です。

雨森清貞は海北綱親と共に浅井家の軍を担当し、各地の戦で活躍し、織田信長が小谷城を総攻撃した際、落城するまで戦い抜きますが、討ち死にしてしまいます。

海北綱親・赤尾清綱・雨森清貞の三人の頭文字をとって「海赤雨の三将」と呼ばれ、恐れられていたそうです。

ニャンコのまとめ

今回は浅井家の武将達をご紹介しました。

ここでは今回の記事についてのまとめをご紹介していきたいと思います。

今回のリサーチ結果としては
  • 浅井家にも織田家同様に強い武将達が存在していた
  • 浅井家の武将達は君主に忠義を尽くしている武将が多い
以上になります。

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それじゃまたニャ~

参考文献 織田信長家臣人名辞典 吉川弘文館など

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