「麒麟がくる」比叡山焼き討ちは意外と燃えず批判もされていなかった!?

2020年11月22日日曜日

織田家 麒麟がくる

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 こんばんわニャンコです。


11月22日の「麒麟がくる」では「比叡山焼き討ち」のシーンが放映されるようです。

織田信長が諸将に命令して行った「比叡山焼き討ち」ですが、燃やされたのは一部分だったのを知っていますか。

更にこの事件は後世織田信長の悪名を高める事件として取り上げられることが多い事件ですが、実は意外と批判されていませんでした。


果たして本当に比叡山はあまり燃えていなかったのか。

そして織田信長は比叡山を燃やしてもあまり批判されなかったのか。

今回はこの二つについてあまり歴史に詳しくないニャンコが分かりやすくまとめてご紹介していきたいと思います。


比叡山へ向けて軍勢を進める織田軍

織田信長は1570年本願寺・三好三人衆らを倒すため、出陣していましたが、朝倉義景と浅井長政の連合軍に背後から攻撃されてしまいます。

織田信長は背後から攻撃してきた朝倉義景・浅井長政の連合軍を倒す為、本願寺と三好三人衆との戦いを切り上げます。
そして織田信長は朝倉義景と浅井長政が籠っている比叡山延暦寺を包囲。

ですが、織田信長は比叡山から朝倉義景と浅井長政を比叡山から追い出す事ができず、和睦して戦の幕を閉じることになります。

織田信長は1571年、浅井家の拠点である佐和山城(さわやまじょう)を降伏させ、比叡山延暦寺へ向かって軍勢を進めていくのでした。

坂本の町を燃やす織田軍

織田信長は織田軍三万を連れて比叡山の近くにある坂本へ到着すると、坂本の町を放火。
織田信長の軍勢は坂本にある民家や比叡山が管理している営舎、由緒ある日枝神社を燃やしてしまいます。

その後織田軍は織田信長の命令の元、比叡山へ向かって進んでいくのでした。

聖域・比叡山の炎上

織田信長は坂本の町を燃やし尽くした後、比叡山へと登り、比叡山に居た僧侶や女性、少年たちを次々と殺害しながら、堂宇へ放火。

こうして織田軍は比叡山に火をつけて回った後、軍勢を下山させて引き上げるのでした。

坂本と比叡山の損害状況は山科言継が書いた書物「言継卿記」によれば、3000人~4000人の死者が亡くなったと記されており、「信長公記」にも数千人が亡くなったとされております。
他の書物にも人数のばらつきはありますが、多くの人々が亡くなったとされており、いかに人的被害が大きかったことがうかがえるかと思います。

人的被害が大きかった焼き討ち作戦ですが、比叡山が燃えたのは一部分だけでした。

意外と燃えていなかった比叡山

比叡山は織田信長の作戦によって多くの部分が燃えて無くなったと思われがちですが、実はあんまり燃えていませんでした。

その証左として昭和40年以降に行われた比叡山の発掘調査によれば、織田信長が行った方か作戦で燃えたのは、根本中堂と大講堂のみだけであり、その他の堂宇からは炎上した痕跡を発見する事が出来なかったそうです。

なぜ一部分だけしか燃えなかったのか。

その理由は織田信長の焼き討ち作戦に疑問をいだいていた諸将が多かったからだと思われます。

例えば木下秀吉は比叡山焼き討ち作戦が開始されると、自軍の部隊に山上に居た僧侶や女性を殺害しないで見逃すように命令を下していたそうです。
更に織田軍の重鎮である佐久間信盛(さくまのぶもり)は織田信長の作戦に批判をしていたそうです。
そのため佐久間隊でも木下秀吉と同じように僧侶たちを見逃していたと思われます。

このように多くの諸将が織田信長のやり方に疑問を持っていた為、 比叡山はすべて焼き討ちされる事無く、最小限の損害で押しとどめられたと考えられるのではないでしょうjか。

意外と批判されなかった比叡山焼き討ち

織田信長は作戦がある程度うまくいっていることを確認した後、側近を連れて足利義昭の元にあいさつに出向きます。

織田信長は足利義昭を訪れた後、朝廷へ赴き比叡山焼き討ちと言う世間をあっと言わせるような事件を起こしておきながら、普段と変わらない態度で公家衆と接します。
その後天皇へあいさつを行った織田信長は満足して京都を後にするのでした。

この際、天皇や公家衆から織田信長が行った比叡山焼き討ちに関する抗議や批判などは一切出なかったそうです。

しかしながら天皇は比叡山焼き討ちの出来事について「御湯殿の上の日記」という書物に「天下の為気の毒な事、筆にも尽くしがたきことなり」とポツリと書いていたそうです。

民衆や地方の戦国大名は織田信長が行った比叡山焼き討ち作戦に対して批判的な言動を残していますが、天皇や公家から直接批判される事はありませんでした。

まとめニャのまとめ


今回は比叡山焼き討ちについてご紹介させていただきました。

比叡山焼き討ち作戦の終了後、比叡山が有していた領地は柴田勝家(しばたかついえ)、佐久間信盛、中川重政(なかがわしげまさ)に与えられることになります。

そして「麒麟がくる」の主人公である明智光秀にも比叡山が保有していた地が与えられることになります。
このことから比叡山焼き討ちは明智光秀にとって織田家で大きく出世するきっかけとなる事件でしたが、果たして「麒麟がくる」ではどのように描かれてるのか。

11月22日に放映される「麒麟がくる」の展開が楽しみですね。

前置きが長くなりましたが、ここからは今回の記事についてまとめていきたいと思います。

「麒麟がくる」比叡山焼き討ちは意外と燃えず批判もされていなかった!?
  • 比叡山は坂本の町が重点的に焼かれた
  • 比叡山は根本中堂と大講堂が焼かれ、他の地域はあまり放火される事は無かった
  • 織田信長が行った比叡山焼き討ち作戦は、天皇や公家、足利義昭から批判されなかった
以上になります。

このブログでは今回の記事の他にも
などの記事もご紹介しておりますので、是非ご覧ください。

それではまた次回もこのブログでお会いしましょう。

またにゃ~

参考文献 
谷口克広著 織田信長合戦全録 桶狭間から本能寺まで 中公新書など
     

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