最近暑すぎて耐えられなくなっているニャンコです。
そんなニャンコが今回紹介する武将は「麒麟がくる」に登場するであろう森蘭丸(もりらんまる)のお父さん・森可成(もりよしなり)と兄・森長可(もりながよし)です。
二人を一言でまとめると「戦に強い武将」です。
本当に森蘭丸の父・森可成と森長可は戦に強い武将だった点に触れながら、歴史に詳しくないニャンコが分かりやすくまとめてご紹介してきたいと思います。
織田信長の家来として尾張統一戦で活躍する森可成
森蘭丸・森長可の父である森可成は元々美濃の斎藤氏に仕えていた人物ですが、すぐに斎藤氏の元を離れ、若き頃の織田信長に仕えます。
森可成は織田信長に仕えると清州城攻めに参加し、織田広信(おだひろのぶ)を討ち取り、織田信長と弟・織田信行(おだのぶゆき)が争った稲生(いのう)の戦いでも活躍。
更に森可成は稲生の戦いの後に起きた桶狭間の戦いにも参加し、功績を残していたそうです。
森可成は戦場だけで活躍する武将ではなく、織田信長が足利幕府の将軍である足利義昭(あしかがよしあき)の為に京都を占領した際、京都の政治を担当するチームに参加し、治安維持、京都の行政などを行い、実績を残しています。
このように森可成は戦場だけで活躍する武将ではなく、政治にもしっかりと参加し、功績を残していた武将でした。
織田信長は森長可の功績を認め、近江南部にある宇佐山城(うさやまじょう)を与えます。
浅井・朝倉連合軍を退けるが討ち死にしてしまう
森可成は宇佐山城を与えられた後、姉川の戦いにも参加ししっかりと功績を残します。
しかし姉川の戦いの後、浅井・朝倉連合軍3万が京都へ向かって進軍。
宇佐山城に残っていた森可成は浅井・朝倉連合軍を止める為1千の兵を率いて出陣し、浅井・朝倉連合軍を追い払うことに成功します。
その後織田信長の弟・織田信治(おだのぶはる)の援軍を得ることに成功しますが、3万の軍勢の攻撃に耐えきる事が出来ず敗北。
森可成はこの戦いで討ち死に。
森可成には長可・蘭丸・坊丸・力丸・忠政が居ましたが、みんなまだ青年と言っていい年齢でしたが、次男・長可が13歳で跡を継ぐことになります。
※ついでに森可成の長男は織田信長が越前(えちぜん)朝倉家を責めた戦において戦死しております。
若き森家の当主
森長可は父が亡くなった後、13歳で森家の当主になります。
森長可はまだ右も左もわからない青年武将でしたが、東美濃(ひがしみの)衆をしっかりとまとめ、伊勢(いせ)長島の一向一揆衆攻略戦に参加。
森長可は伊勢長島の一向一揆衆討伐戦の後、織田信長の長男である織田信忠の配下として加わり、織田信長に反乱を起こした荒木村重討伐戦などで活躍しています。
武田攻めで活躍
森長可は織田信忠が総大将として出陣した武田家討伐戦に参加。
この戦いで森長可は信濃(しなの)の飯田(いいだ)城を落し、武田勝頼の弟・仁科信盛(にしなのぶもり)が籠城する高遠城(たかとうじょう)攻略戦でも活躍します。
森長可はこれらの活躍により、織田信長から信濃に領地をもらうことになります。
こうして戦で功績をしっかりと挙げた若き森家の当主・森長可ですが、大事件に巻き込まれ、領地を放棄する事になってしまいます。
本能寺の変が起きた事で信濃を放棄
1582年早朝。
明智光秀率いる軍勢が織田信長が泊っている本能寺へ奇襲攻撃を行います。
この結果、織田信長は明智光秀の軍勢によって亡くなってしまいます。
森長可は本能寺で織田信長が明智光秀によって殺害された事を知り、すぐに信濃の領地を放棄して美濃の領地へ帰還。
森長可は美濃へ帰ってくると元部下達や織田家の支配が緩くなった美濃近辺を豪族達が集結し、森家を倒そうと考えているとの情報をキャッチ。
森長可は自分を倒そうとしている勢力が協力する前に各個撃破するべきだと考え、敵対勢力を次々に倒していき、勢力を拡大していきます。
森長可は美濃で勢力を拡大している頃、明智光秀を討伐した羽柴秀吉の味方になる事を宣言。
その後森長可は美濃で勢力を拡大していき、羽柴秀吉に敵対していた織田信孝(おだのぶたか)が自害した頃には、東美濃のほとんどを自らの領地としていました。
羽柴秀吉が織田信雄と戦う事になると森長可は舅である池田恒興(いけだつねおき)と一緒に羽柴秀吉の味方に付く事を再び、宣言するのでした。
小牧・長久手の戦いで戦死
森長可は羽柴秀吉に味方し、織田・徳川連合軍と戦うことになります。
羽柴秀吉は養子である羽柴秀次(はしばひでつぐ)が徳川家の本拠地へ奇襲攻撃を行う軍勢を編制。
森長可はこの奇襲攻撃第2陣の大将に任命され、舅である池田恒興と一緒に出陣します。
しかし三河へ侵入する途中で羽柴秀次の軍勢が長久手近辺で、徳川家康の軍勢に敗北してしまいます。
更に森長可の後ろを進軍していた堀秀政(ほりひでまさ)の軍勢も徳川軍の攻撃を受けて敗北。
森長可率いる軍勢は堀秀政軍が撤退してしまった為、退却する事が出来ず池田恒興と一緒に
徳川軍へ突撃を行い討ち死にしてしまうのでした。
享年27歳と若くして亡くなってしまうのでした。
森長可のちょっといいお話
森長可は三河へ出陣する際、奥さんへ遺言状を送っていました。
森長可が奥さんに送った遺言状には娘の嫁ぎ先に対して「娘は武士と結婚させないで、医者へ嫁がさせるのがいい」と記されていました。
父や兄・弟達を戦で失った森長可は自分の娘だけでも戦とは関係ない世界で過ごしてほしいと願って上記のような遺言状を残したのかもしれませんね。
ニャンコのまとめ
今回は森蘭丸の父と兄についてご紹介しました。
ここからは今回の記事をまとめていきたいと思います。
「麒麟がくる」森蘭丸の父と兄ってどんな人!?親子揃って戦人!!のまとめ
- 森可成は織田信長に仕えて、各地の戦で活躍した猛将
- 森可成は圧倒的な兵数差でもビビらず戦うも討ち死に
- 森長可は13歳で森家の当主へ
- 森長可は父に似て各地の戦で活躍
- 森長可は家族を戦で失くしている事から自分の娘の幸せを願う優しい父親
以上になります。
森家の人々は森可成を筆頭に森長可・森蘭丸・坊丸・力丸全てが討ち死にしています。
しかし森長可の弟である森忠政(もりただまさ)だけは戦で討死する事無く、徳川幕府の大名として生き残る事が出来ました。
チョット余談を書いた所で今回は終わりにしたいと思います。
このブログではこの記事以外にも
などの記事もご紹介しておりますので、お時間のある時に読んでいただければ幸いです。
それではまた次回の記事でお会いしましょう。
参考文献 織田信長家臣人名辞典など
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