亡くなる間際まで武田信玄が参加していた作戦は有名な「西上作戦」と言われるものです。
武田信玄の「西上作戦」の目的は京都へ向かう事が目的であったと言われていますが、一気に京都へ向かう事を目的としていたのでしょうか。
はたまた違う目的があって「西上作戦」をしたのでしょうか。
今回のモンゴルhistoryでは武田信玄の西上作戦と言われる軍事行動について、歴史に詳しくないニャンコが分かりやすくまとめてご紹介していきたいと思います。
武田信玄の「西上作戦」の目的は?
武田信玄の「西上作戦」はいったい何なのでしょうか。
色々な説が言われておりますので、少しご紹介したいと思います。
- 遠江(とおとうみ)・三河(みかわ)制圧説
- 一気に京都へ向かう事を目的にした軍事作戦
- 織田信長を倒す事と京都へ向かう事を目的とした軍事行動
これらが主流となっているようですが、これらの中に武田信玄の「西上作戦」に当てはまるものがあるのでしょうか。
結論から言いますとありません。
なぜニャンコはそのように断定できるのか。
それは武田信玄が「西上作戦」の内容をはっきりと明かさないまま亡くなってしまったからです。
しかし武田信玄の「西上作戦」の内容からある程度推測する事が出来ます。
そこでここからは武田信玄の「西上作戦」の内容から、「西上作戦」の目的を推測していきたいと思います。
武田信玄の「西上作戦」は遠江・三河を奪うためだった??
武田信玄は領地である甲斐(かい)から出陣し、「西上作戦」を開始。
武田信玄の「西上作戦」は徳川家の領地となっている遠江(とおとうみ)・三河(みかわ)を攻略する事が目的で行った作戦であるとの説があると上記でご紹介しましたが、この点についてニャンコの推測をご紹介したいと思います。
結論から言いますとニャンコは武田信玄の「西上作戦」が遠江・三河を手に入れる為だけに行われた作戦じゃないと思います。
その理由として武田信玄が別動隊を織田信長の領地である東美濃へ派遣しているからです。
もし武田信玄の「西上作戦」が遠江・三河を奪う事に注直して行った作戦である場合、わざわざ、東美濃へ別動隊を派遣する必要性がありません。
また武田信玄が遠江・三河を手に入れる為に「西上作戦」をしたのであれば、同盟相手である織田信長の領地へ攻め込むメリットがありません。
このことから武田信玄の「西上作戦」は遠江・三河を手に入れる事を目的とした作戦ではなかったのかなと思います。
しかしこのニャンコ説が絶対に正しいとも言い切れない事をご承知ください。
武田信玄の「西上作戦」は一気に京都へ向かう事が目的だった⁉
武田信玄の「西上作戦」の目的として良く知られているのが、一気に京都へ向かっていく説です。
この説についてニャンコはあながち間違えていないと思います。
しかし武田信玄が一気に京都へ向かうために「西上作戦」をしたのかという点については違うのかなと思います。
その理由は武田信玄率いる2万もの軍勢の補給路を確保する事が容易ではないからです。
もし一気に武田信玄が京都へ向かって軍勢を進めていくと考えていたとしても、京都まで向かう途中に消費する武田軍の兵士の食料や武具、馬に与えるエサなどを確保できなかったと思われます。
そのため京都へ向かうために武田信玄が「西上作戦」をしたとしても、一気に京都まで行こうとは考えていなかったと思われます。
武田信玄の「西上作戦」は織田信長打倒と京都へ向かう事をセットにした作戦だった⁉
最後に紹介するのは武田信玄の「西上作戦」が織田信長を倒す事と京都へ向かう事をセットにした軍事作戦だったのではないかという説についてです。
ニャンコはこの説が一番しっくりくるような気がします。
その証左として武田軍が三方ヶ原の戦いで徳川・織田の連合軍に勝利した後、刑部(おさかべ)と言う地で年越しをした後、三河のあまり小さくない野田城(のだじょう)を攻撃しています。
武田軍は野田城を落すのに一か月以上の時間を費やして攻略した後、長篠城へ入城して時間を過ごしていました。
なぜ武田軍は長篠城で時間を過ごしたのでしょうか。
それは武田信玄の病が悪化しただと言われています。
しかし「軍監」と呼ばれる書物では、武田信玄の病気が悪化した後、作戦に参加していた医者たちの懸命な治療によって、歩けるぐらいには回復していたそうです。
武田信玄の病がある程度回復したにもかかわらず、なぜ長篠城に留まっていたのでしょうか。
それは武田信玄が織田信長と戦うための必須条件である朝倉義景を動かすため、長篠城で時間を過ごしていたと思われます。
武田信玄は武田軍単独で織田軍と戦う事に勝利することが難しいと判断。
そのため武田信玄は織田信長と敵対していた朝倉義景へ「美濃へ出陣してくれ」との内容を書いた手紙を朝倉義景へ送っています。
しかし朝倉義景は武田信玄の要求を満たす事無く、出陣しませんでした。
そのため武田信玄は長篠城で朝倉義景が織田信長の領地である美濃へ出陣させるための交渉をしていた為、長篠城で時間を潰していたと思われます。
ニャンコのまとめ
今回は武田信玄の西上作戦について色々とご紹介しました。
ここからは今回の記事のまとめをご紹介したいと思います。
武田信玄の西上作戦の目的は何!?武田信玄の西上作戦の目的をリサーチしてみた!!
- 武田信玄の「西上作戦」の内容ははっきりせず、いくつかの可能性がある
- 武田信玄の「西上作戦」の目的は遠江・三河攻略戦、京都までばく進する説、織田信長を倒す事と京都へ向かう事をセットにした説
- 武田信玄の「西上作戦」は織田信長を倒した後、京都へ向かう事を目的とした可能性が高い
以上になります。
武田信玄は「西上作戦」で織田信長を倒す事と京都へ向かう事を目的とした可能性が一番高いとニャンコは思うのですが、皆様は武田信玄の「西上作戦」の目的は何だったと思いますか。
このブログでは今回のような記事の他にも
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それでは次回お会いしましょう~!!
参考文献 吉川弘文館 武田信玄など
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