日本の戦国時代は根強い人気を誇っており、現在もNHKの大河ドラマ「麒麟が来る」が話題になり、戦国時代ファンが増加中です。
しかし戦国時代は登場人物が多くて分かりにくかったり、大名同士の合戦が行われた場所が想像できなかったり、知っている人じゃないと戦国時代を楽しめない難点があります。
そこで今回は戦国時代に興味があるけど難しいそうでタッチしてこなかった人や歴史ってつまんなそうって考えている人にも、カップラーメンを待っている時間でわかりやすく戦国時代のことを解説していきたいと思います。
もちろん「チンギス紀」の事もこのブログで書いていくからお楽しみに。
では第一回のテーマは「北条早雲」です。
カップラーメンの待ち時間に読んでくれれば幸いです。
岡山の人・北条早雲
北条早雲を一言で表すと「下克上を起こして戦国時代を作り上げた人!?」です。
どうして北条早雲は下克上を起こすことになったのでしょうか。
時系列に沿って紹介してきたいと思います。
まず北条早雲の出生地ですが備中国(現在の岡山県)です。
彼のお父さんは足利幕府のお偉いさんで、北条早雲が裕福な家庭で育ったお坊ちゃんだったことが分かるかと思います。
岡山から京都そして関東へ
北条早雲は出生地である備中国(岡山県)を出て京都の足利幕府で就職し、仕事をすることになります。
その後北条早雲は足利幕府で出世していきます。
その頃駿河(静岡県)では北条早雲の姉の嫁ぎ先今川で大事件が発生。
今川家の当主である義忠が合戦で討ち死に。
今川家は早雲の姉の息子と家臣の朝比奈氏が今川義忠の後継を巡って争い始めます。
すると朝比奈氏に上杉家と太田家が参戦し、見方が少ない今川義忠の息子と早雲の姉の立場が不利になっていきます。
北条早雲は父から命じられて駿河へ出向きます。
北条早雲は上杉・太田両家に対して「朝比奈氏が立てた後継者を一時的に今川家の後継者とし、今川義忠の息子が15歳になってから今川家の家督を継ぐ」内容を提示。
上杉・太田両家は北条早雲の提案を納得し今川家の家督争いから撤退します。
こうして北条早雲は駿河の状況を安定させた後、京都へ戻ります。
しかし今川義忠の息子が15歳になっても、今川家の家督を継ぐことができませんでした。
その理由は一時的に今川の領主となっていた人が今川義忠の息子へ家督を譲らなかったことが原因です。
そのため北条早雲は再び駿河へ出向いて、今川義忠の息子と力を合わせて、一時的に今川家の家督を継いでいた者を倒します。
こうして今川家の領主は今川義忠の息子が継ぐことになります。
今川家の新しい領主の名前を今川氏親と言い、今川義元のお父さんにあたります。
北条早雲は今川家の家督相続の争いをおさめた事で、幕府から伊豆と駿河の国境となっている興国寺城(現在の沼津市)を与えられ、今川家の家臣として働き始めます。戦国時代の始まり「北条早雲の下克上」
その後北条早雲は足利幕府で出世していきます。
その頃駿河(静岡県)では北条早雲の姉の嫁ぎ先今川で大事件が発生。
今川家の当主である義忠が合戦で討ち死に。
今川家は早雲の姉の息子と家臣の朝比奈氏が今川義忠の後継を巡って争い始めます。
すると朝比奈氏に上杉家と太田家が参戦し、見方が少ない今川義忠の息子と早雲の姉の立場が不利になっていきます。
北条早雲は父から命じられて駿河へ出向きます。
北条早雲は上杉・太田両家に対して「朝比奈氏が立てた後継者を一時的に今川家の後継者とし、今川義忠の息子が15歳になってから今川家の家督を継ぐ」内容を提示。
上杉・太田両家は北条早雲の提案を納得し今川家の家督争いから撤退します。
こうして北条早雲は駿河の状況を安定させた後、京都へ戻ります。
しかし今川義忠の息子が15歳になっても、今川家の家督を継ぐことができませんでした。
その理由は一時的に今川の領主となっていた人が今川義忠の息子へ家督を譲らなかったことが原因です。
そのため北条早雲は再び駿河へ出向いて、今川義忠の息子と力を合わせて、一時的に今川家の家督を継いでいた者を倒します。
こうして今川家の領主は今川義忠の息子が継ぐことになります。
今川家の新しい領主の名前を今川氏親と言い、今川義元のお父さんにあたります。
北条早雲は今川家の家督相続の争いをおさめた事で、幕府から伊豆と駿河の国境となっている興国寺城(現在の沼津市)を与えられ、今川家の家臣として働き始めます。戦国時代の始まり「北条早雲の下克上」
戦国時代の始まり「北条早雲の下克上」
北条早雲は今川家の家臣として活動しつつ、幕府から与えられた興国寺城から伊豆の足利家の一族である堀越公方を襲撃して領地を拡大。
この北条早雲が起こした行動は戦国時代に頻繁に起きていた下克上の先駆けとされています。
また北条早雲が起こした行動によって戦国時代の火ぶたが切って落とされたと言われており、彼が戦国時代の始まりを作ったと言っても過言ではないでしょう。
小田原城をゲットした北条早雲
北条早雲は堀越公方が持っていた堀越御所を奪うと、西へ軍勢を動かしたかと思えば、東へ軍勢を動かして日々忙しい毎日を過ごし、伊豆にあった敵対勢力の城を次々と奪っていきます。
こうして北条早雲は伊豆に領地を得ると大きな領土を獲得するため、再び動き始めます。
北条早雲が伊豆を手に入れた頃、関東では足利幕府を立てた足利尊氏の血族である扇谷上杉家と関東で一番偉い・上杉顕定が争っていました。
しかし扇谷上杉家の当主が亡くなり、扇谷上杉家を支えていた相模(現・神奈川県)の三浦家・大森家の当主が亡くなってしまう不運が発生。
北条早雲は大森家の新しい当主と仲良く付き合っていきます。
ある日北条早雲は「鹿狩りを行いたいから、大森家の領地に鹿狩りするための人数を入れさせて欲しいけどいい。」と大森家の領主へお願いします。
大森家の領主は「いいよ~!!」軽いノリで返事を出します。
すると北条早雲は大森家の領地へ軍勢を入れて、大森家の城であった小田原城を奪ってしまいます。
大森家の当主は「北条早雲!絶対に許さないぞ!」と捨て台詞を言いながら逃亡してきますが、小田原城を取り戻すことはできませんでした。
こうして北条早雲は小田原城を苦労することなくゲットすることに成功します。北条家の基礎を作り上げる
北条家の基礎を造る
北条早雲は小田原城をゲットすると領地の支配体制の基礎固めを行いつつ、相模(現・神奈川県)で敵対する勢力を徐々に弱らせていきます。
その結果、北条早雲が小田原城をゲットしてから20年後には相模全域を手に入れます。
北条早雲は領地を治めるため法律を新しく作り上げたり、検地を始めて行ったりと新しい試みをいくつも実施して、領土内を安定させていきます。
北条早雲は領地を治めるため法律を新しく作り上げたり、検地を始めて行ったりと新しい試みをいくつも実施して、領土内を安定させていきます。
こうして北条早雲は関東で大きな勢力を作り上げることに成功し、長男である北条氏綱へ家督を譲ります。
その後北条早雲は長男氏綱へ家督を譲ってから一年後に亡くなります。
享年・64歳でした。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
第一回は北条早雲の事を分かりやすく紹介しました。
ここまでで約5分程で読めますので、カップラーメンが出来るまでの間やちょっとしたスキマ時間で北条早雲の事が分かるかと思います。
次回は北条早雲の跡を継いだ北条家の二代目当主・北条氏綱についてご紹介したいと思います。
もちろん北条氏綱もカップラーメンが出来るまでの間に分かりやすく紹介してきたいと思います。
ボスからの一言
ボス「【チンギス紀】を読了するまでの間に日本の戦国時代のことについて紹介していくことにしたにゃ。」
ボス「戦国時代は分かりにくいことだらけだし、登場人物も多くて覚えにくいし、時代背景もわかりにくいところがあると思うにゃ。
でもうちのブログを書いているご主人がなるべくわかりやすく紹介していくから、みんな読んで欲しいにゃ。」
参考文献 『北条早雲とその一族』新人物往来社など
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