北条氏政(Wikipediaから引用) |
「戦国時代」シリーズも第4回目になりました。
「チンギス紀」は今読んでいる途中ですので、もう少しお待ちください。
さて今回紹介する「戦国時代」シリーズは北条家四代目当主・北条氏政です。
北条氏政を一言で表すと「北条家最大の獲得した当主」です。
北条家最大の領土を獲得した当主・北条氏政について5分でわかるように紹介していきたいと思います。
北条家の当主となり、父と一緒に仕事を行う
北条氏政(Wikipediaから引用) |
北条氏政は長男が早くに亡くなった事がきっかけで、父・北条氏康(ほうじょううじやす)から北条家の跡を継ぐことになります。
北条氏政は父から北条家当主を譲られると隠居した父と共に仕事を開始。
北条氏政は上杉謙信が小田原城を囲んだ時、父・氏康と一緒に攻防戦で活躍します。
他にも北条氏政は安房(あわ)の里見家(さとみけ)との戦いや駿河(するが)の大名・今川氏真(いまがわうじざね)を助けるための戦などで功績を挙げます。
また北条家の当主となった北条氏政は父・北条氏康と一緒に領内の内政にも参加し、民衆が住みやすくなるような政策を実施。
こうして北条氏政は父・北条氏康が亡くなるまで軍事や政治面で活躍していき、父が亡くなると、北条家の当主として北条の舵取りをして行きます。
上杉謙信を慕った勢力を一掃する
北条氏政は父の死後、関東へ乱入してきたため、氏政自ら軍勢を率いて上杉謙信と対陣。
両者は本格的な戦へ発展することなく、上杉軍が撤退したことで、北条軍も撤退していきます。
その後北条氏政は上杉謙信と同盟を結んでいる反北条家勢力の梁田家(やなだけ)を従わせ、下野(しもつけ)の小山家の領土を手に入れます。
また反北条勢力として長年北条家と争ってきた安房の里見家と同盟。
こうして北条氏政は上杉謙信と同盟していた勢力を一掃することに成功し、関東最大の大名として成り上がります。
しかし反北条勢力は全滅したわけではなく、常陸(ひたち)の佐竹家を旗頭にして、下野の宇都宮家などの勢力が結集し、北条家と戦いを継続していくことになります。
武田との同盟決裂
北条家は一時武田家と敵対していましたが、北条氏康の死後、再度武田と同盟を結んで協力体制を築きます。
しかし武田信玄が亡くなり、息子の武田勝頼(たけだかつより)の時代に北条家との同盟に亀裂が入ります。
武田との同盟に亀裂が入ったのは、上杉家の後継問題が原因です。
上杉謙信は突然なくなってしまったため、後継者を決めませんでした。
そのため上杉家は謙信の跡を継ぐため、二人の人物が争うことになります。
一人目は上杉謙信の姉の子供である上杉景勝。
二人目は北条家と上杉家が同盟した際、上杉家の人質になり、上杉謙信の養子となっていた長尾景虎(ながおかげとら)です。
両者は上杉謙信の後継となるべく戦いを開始。
上杉景虎は実家である北条家へ支援してくれ料に要請します。
北条氏政は景虎の要請を受け入れて軍勢を出陣させます。
この時北条氏政は同盟相手である武田勝頼へ「上杉の領土を取りに行かないか」と誘います。
武田勝頼は北条氏政の誘いに乗って出陣しますが、途中で軍勢を引き上げてしまいます。
武田勝頼が軍勢を引き上げた理由は上杉景勝から同盟してくれるように頼まれたことがきっかけでした。
武田勝頼は上杉景勝のお願いを聞いて上杉家と同盟。
北条氏政は武田勝頼が北条家との同盟を破棄して上杉と同盟したことに激怒し、新たな同盟相手を探し始めます。
徳川・織田と結び武田を攻撃
北条氏政は武田との同盟が決裂した事で、三河(みかわ)・遠江(とおとうみ)・駿河(するが)に勢力を伸ばしていた徳川家と同盟します。
更に北条氏政は近畿(きんき)一帯を勢力下におさめ、日本最大の勢力になっていた織田信長に従うことを決意し、北条家の当主の地位を嫡男・氏直へ譲ります。
北条氏政は家督を譲った後隠居し、氏直と一緒に北条家を運営。
北条氏政は織田に従った後、関東の反北条勢力である佐竹家や武田との戦いを繰り広げていきます。
その後北条氏政は織田信長が武田家を倒す戦を始めた際、軍勢を率いて武田家の領土へ攻撃を行い、武田の領土を奪うことに成功。
武田家は織田・徳川・北条の三家の攻撃を受けると滅亡してしまうのでした。
織田家の危機は北条家のチャンス!!
織田信長は武田家を倒して京都へ帰っていきますが、明智光秀が謀反を起こし本能寺で討ち取られてしまいます。
北条氏政は織田信長が亡くなった事を知ると関東の上野(こうずけ)へ進出していた滝川一益(たきがわかずます)へ攻撃を行います。
北条軍は滝川軍と神流川(かんながわ)で決戦を行い、滝川軍を倒します。
その後北条氏政は織田家が占領していた信濃(しなの)を占領。
こうして北条家は着々と勢力を拡大していくことになります。
しかし北条氏政が勢力を伸ばしていた頃、北条家の同盟相手である徳川軍も甲斐(かい)を占領し勢力を伸ばしていました。
今日の友は明日の敵!!明日の敵は今日の友!?
北条軍が信濃を占領していた頃、北条と同盟していた徳川軍も軍勢を甲斐(かい)を占領します。
北条氏政は同盟相手である徳川軍を倒して甲斐を吸収して北条家の勢力へ組み込むため、徳川軍との戦いを始めます。
しかし北条軍は徳川軍に敗北。
更に北条軍に味方していた真田家(さなだ)が徳川家に寝返ってしまったため、北条家の状況が不利になってしまいます。
北条氏政は徳川軍とこのまま争うことの不利を悟り、徳川家康の娘・督姫(とくひめ)を氏直に嫁がせる事を条件として和解します。
こうして北条家は信濃を徳川家へ譲って、上野一帯を勢力に吸収することに成功するのでした。
北条家最大勢力を獲得
北条家は徳川と和解した時の勢力は武蔵・上野・下総(しもうさ)・上総(かずさ)・相模(さがみ)の他に駿河・常陸・下野の一部を領地にしていました。
戦国時代の石高で表すと240万石ほどになります。
次いでに江戸時代の加賀前田で知られる100万石よりも大きな領地を持っています。
また豊臣期の時代の毛利家は110万石程の領土を持っていましたが、この毛利家よりも北条家の方が大きな勢力でした。
更に歴代北条家の当主達の中でも北条氏政が一番北条家の領土を拡大した大名でした。
こうして北条氏政は北条家最大勢力を獲得することに成功しますが、織田家の跡を引き継いだ人物が西からやってきます。
豊臣秀吉の台頭と北条家の行方
北条氏政は徳川家と和睦をし、北条家最大勢力を手に入れた頃、西では織田信長の跡を継いだ人物が各地の大名を倒したり、服従させたりしながら勢力を拡大していました。
その人物の名前は羽柴秀吉、後の豊臣秀吉です。
彼は天王山で明智光秀の軍勢を倒したあと、織田家の重臣・柴田勝家(しばたかついえ)を賤ヶ岳の戦いで破り、上杉景勝と同盟。
その後豊臣秀吉は四国(しこく)の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や九州の覇者・島津家を従わせます。
更に豊臣秀吉は長いあいだ敵対していた徳川家康も服従させます。
こうして豊臣秀吉は関東以西全域を手中におさめ、関東の覇者である北条家と対立することになります。
北条氏政は豊臣秀吉から会見するために一度京都へ来るように要請を受けますが、秀吉の申し出を拒否。
しかし北条氏政は婚姻関係を結んでいる徳川家康から説得されて、自分の代わりに弟・北条氏規(ほうじょううじのり)を京都へ向かわせます。
この結果北条家と豊臣家は仲良くすることになりますが、ある事件がきっかけで険悪な状況になってしまいます。
名胡桃城事件がきっかけで豊臣と戦う事になる!?
北条氏政は豊臣家との友好関係を築くことに成功しますが、大事件が勃発。
それは上野にあった城・名胡桃城を家臣である猪俣邦憲が攻撃して占拠してしまったことです。
北条氏政はこの事件を受けてすぐに豊臣家へ「名胡桃城を攻撃したのは家臣が勝手にやったことで私が指示したことではありません。この事件の事実関係をしっかりと調査していただけないでしょうか。」と申し開きの書状を送ります。
また北条氏政は徳川家康へ「名胡桃攻撃は私や氏直が指示したわけではありません。このことを豊臣秀吉様に伝えていただけないでしょうか」と手紙を送ります。
しかしこの手紙は徳川家康がたまたま京都へ上り、豊臣秀吉と北条家討伐戦の作戦会議を行っていたため届きませんでした。
こうして北条家は不慮の事件から豊臣家と戦うことになるのです。
豊臣秀吉と敵対するが・・・・
北条氏政は豊臣家と戦う覚悟を決めて、関東各地の城の修築を行いつつ、小田原城へ兵力と兵糧を集めて防衛作戦を展開。
豊臣秀吉は20万以上の兵力を持って北条家へ押し寄せてきます。
北条家の各地の城は豊臣軍の攻撃に耐えられず、次々と落とされてしまい、小田原城も豊臣軍の大軍に囲まれてしまいます。
北条氏政と氏直親子は小田原城で豊臣軍に抵抗しますが、北条家の家臣達が豊臣家へ何人も寝返ってしまった事などが原因で、降伏することに決めます。
北条氏政は豊臣家に降伏した後、豊臣家と戦った責任を取らされて切腹。
北条氏政の息子・北条氏直は一命を取り留めますが、高野山へ追放されます。
こうして北条早雲から続いた北条家五代は滅亡してしまうのでした。
管理ネコ・ボスの一言
ボス「長きにわたって関東をおさめた北条家も北条氏政の時代で終わってしまったにゃ。
北条氏政は北条家を滅ぼしてしまったため、あまりいい評価をされていないけど、北条家の領土を一番大きく広げた人物であるから、優秀な人物だと思うにゃ。」
ボス「まだまだ戦国時代のお話は続くにゃ。よかったら次も見てくれにゃ」
参考文献 戒光祥出版 北条氏政など
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