「武田信玄と上杉謙信」川中島の戦いは5回もあった!?川中島の戦いの経緯などをまったり5分で解説!!

2020年2月29日土曜日

上杉謙信 戦国時代 武田家 武田信玄

t f B! P L
川中島の戦い一騎打ち(Wikipediaから引用)
武田信玄の宿敵といえば、皆さんご存知の上杉謙信です。

武田信玄と上杉謙信は信濃(しなの)の川中島で激闘を繰り広げます。

この川中島の戦いは1回だけでなく通算5回行われた戦いでした。

今回はこの川中島の戦いについてご紹介していきたいと思います。

5分でわかりやすく解説しますので、カップラーメンの待ち時間などのスキマ時間でサクッと読んでみてはいかがでしょうか。

川中島の戦いが起きた理由「上杉謙信の主張」


武田信玄と上杉謙信が決戦を行った「川中島の戦い」。

この戦いはどうして起きることになったのでしょうか。

まずは上杉謙信の主張から紹介したいと思います。

上杉謙信は川中島へ出兵する理由として、北信濃(きたしなの)の豪族である村上氏や須田氏、島津氏達と関係が深く、彼らに助けを求められた事が理由の一つです。

また上杉家が北信濃の高梨氏と婚姻関係を持ち、高梨氏が武田信玄の攻撃を受けて圧迫していたことも川中島へ出兵することになったきっかけです。

上杉謙信はこれらの理由から北信濃の豪族たちの領土を回復するために、出陣することになります。

川中島の戦いが起きた理由「武田信玄の主張」


上杉謙信の主張を上記で紹介しましたが、対する武田信玄はどのような主張をしたのでしょうか。

武田信玄は諏訪神社のお祭りを100年前に行われていた頃と同じように北信濃の豪族たちへ行わせようとしていたにも関わらず、彼らが一切お祭りを行わなかったため、島津氏や高梨氏らを捕らえ、信濃全域でお祭りを行わせるため川中島へ出兵したそうです。

上杉謙信の主張は北信濃の豪族たちから助けを求められたので出兵しているのに対して、武田信玄の主張はどうしても理由を無理やり付けたような気がしてなりません。

しかし武田信玄はこれだけの理由だけではなく、北信濃の民衆たちが戦続きの状況をなくして、平和な地域を作り出すために川中島へ出兵したとの理由も付け加えます。

武田信玄はこれらの理由を前面に押し出して北信濃へ出兵することになります。

武田信玄と上杉謙信のはじめての戦い「第一次川中島の戦い」



武田信玄は自分の主張を前面に押し出して北信濃の村上氏の城である葛尾城を手に入れます。

上杉謙信は北信濃の豪族たちの要請を受け入れて越後(えちご)から南下し、武田軍の先陣と戦いを開始。

上杉軍と北信濃の豪族軍は武田軍の先陣に勝利し、葛尾城を武田家から奪い返します。

武田信玄は上杉軍や北信濃の豪族達の勢いが強いことを知り、一旦甲斐(かい)へ撤退していきます。

上杉軍と北信濃の豪族軍は武田軍が甲斐(かい)へ撤退したことを知って、武田軍に奪われた領土を取り戻します。

武田信玄は甲斐へ戻り、上杉軍が撤退した頃を見計らって出陣し、奪われた領土を全て奪い返します。

北信濃の豪族たちは武田軍に再び領土を取られてしまったので、上杉謙信に再度助けを要請。

上杉謙信は北信濃の豪族達の要請を受け入れて再び川中島方面を経由して北信濃へ出陣します。

上杉軍は武田軍に布施(ふせ)で勝利すると荒砥城や虚空蔵山城など、各地の北信濃の城を奪い、越後へ帰るのでした。

武田信玄は上杉軍が北信濃から去ったため、北信濃から軍勢を撤退させていきます。

上杉軍に勝つために三国同盟を結ぶ


武田信玄は甲斐へ戻ると上杉軍と本気で戦うため、背後から攻撃を受けるような状況を無くすしかないと考えます。

そこで武田信玄は今川家から長男・武田義信(たけだよしのぶ)の奥さんを娶ります。

武田信玄は今川家と北条家の関係が悪化していることを受け、二つの大名の間に入って関係を修復。

武田信玄の仲介によって両家は婚姻関係を結ぶことになります。

また北条家は武田信玄が婚姻関係を結び、北条家の当主である北条氏政のもとへ武田信玄の娘が嫁ぎます。

こうして武田・今川・北条の三家は互いに婚姻関係を結んだことで、同盟関係が成立することになります。

武田信玄は関東の北条家と駿河(するが)の今川家との同盟が成立したことで、東と南から攻撃を受ける心配が無くなり、全力で上杉軍と向かい合う状況を作り出します。


武田信玄と上杉謙信の200日も滞陣した「第二次川中島の戦い」


武田信玄は三国同盟が成立すると上杉家に奪われた信濃の南部と東部を奪い返し、北信濃へ向けて出陣します。

上杉謙信は武田信玄が北信濃へ出兵したことを知り、軍勢を率いて武田軍が占領している善光寺城を包囲。

武田信玄は善光寺城を救うため援軍を派遣し、自らも軍勢を率いて川中島へ出陣します。

こうして武田信玄と上杉謙信ははじめて全力で戦いをはじめることになります。

「第二次川中島の戦い」と言われるこの戦いは武田軍の勝利で終わります。

しかし上杉軍は撤退することなく、犀川と呼ばれるかわの向こう岸に陣を張って体勢を整えます。

武田信玄も上杉軍が撤退しないため、上杉軍と犀川で陣を張っていつでも戦える状態を維持。

こうして武田・上杉両軍は戦線を維持したまま200日も膠着することになります。

武田・上杉両軍とも疲れ果ててしまいます。

武田信玄は今川義元へ和睦の仲介をお願いした事がきっかけで、200日及ぶ戦が終わりを告げます。

武田信玄が領土を広げ、上杉謙信が決め手を欠いた「第三次川中島の戦い」


武田信玄は「第二次川中島の戦い」の後、すぐに真田幸隆らを動かして尼飾城を占領します。

その後武田信玄は上杉家の家臣に反乱を起こさせて上杉家の領内を乱しつつ、上杉家に味方していた葛山城を奪います。

上杉謙信は武田軍を信濃から追い払うために出陣し、武田軍と上野原で戦いますが、大きな戦果を挙げることができず、武田信玄も出てこないので撤退。

こうして両軍は本格的な戦をすることなく、川中島付近から撤退することになります。

最大の激戦だった「第四次川中島の戦い」

「川中島の戦い」は読者の皆様のイメージですと上杉謙信と武田信玄が一騎打ちを行った激しい戦いを想像していると思います。

しかし両者が「川中島の戦い」で一騎打ちをしていません。

ですが実際に激戦があったのは「第四次川中島の戦い」です。

ここからは「第四次川中島の戦い」を紹介していきたいと思います。

「第四次川中島の戦い」がはじまるまでの上杉家の状況


上杉謙信は「第四次川中島の戦い」が行われる前にどのような状況であったのか紹介したいと思います。

上杉謙信は「第三次川中島の戦い」の後、足利幕府将軍である足利義輝(あしかがよしてる)に会うため、軍勢を率いて京都へ。

京都に到着した上杉謙信は足利義輝と会見し、正親町天皇(おおぎまちてんのう)とも会います。

この時上杉謙信は関東管領職に就いていた上杉憲政から関東管領職を譲られていましたが、幕府から上杉謙信が関東管領職の譲渡を正式に認められ、上杉謙信が関東管領職に任命されます。

上杉謙信はその後越後へ帰ると越中の椎名家を助けて神保家を追放。

その後上杉謙信は少し休んだ後春日山城(かすがやまじょう)を離れて関東へ出陣します。

上杉謙信は上野(こうずけ)の沼田城(ぬまたじょう)と厩橋城(うまやばしじょう)を手に入れて年越。

翌年に上杉謙信は北条家の本拠地である小田原城へ攻撃しますが、落とすことができませんでした。

その後上杉謙信は関東管領就任(かんとうかんれいしゅうにん)を鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で行い、関東における上杉謙信の行動の正当性を関東の諸将へアピールしてから越後へ帰国。

こうして越後へ帰国した上杉謙信を待ち受けていたのが北信濃で領土を拡大していた武田信玄でした。

「第四次川中島の戦い」が始まるまでの武田家の状況


武田信玄は「第四次川中島の戦い」がはじまるまで、どのようにして過ごしていたのでしょうか。

武田信玄は「第三次川中島の戦い」が集結した後、幕府から上杉家と和睦するように要請を受けます。

武田信玄は上杉家と和睦する条件として「信濃守護職」の地位をくれるように条件を出します。

戦国時代の守護職にはほとんど意味がなく力もありませんでした。

しかし武田信玄は「信濃守護職(しなのしゅごしょく)」の地位に就任することで信濃全域を治めるための大義名分を手に入れようと考えていました。

幕府は武田信玄の条件を受け入れて「信濃守護職」の地位を与えます。

こうして武田信玄は「信濃守護職」の地位を手に入れると、越後の上杉謙信が京都へ行っているとの情報を手に入れ、すぐに北信濃全域を手に入れるべく出陣。

武田信玄は上杉軍からの妨害がなかったため簡単に北信濃のほとんど全てを占領します。

その後武田信玄は上杉軍から攻撃を受けた際の前線拠点として海津城(かいづじょう)を作り、上杉軍がいつ来てもいいように準備。

武田軍がしっかりと準備万端に整えた頃、関東から帰ってきた上杉謙信が川中島方面へ出陣してくるのでした。

武田信玄の「啄木鳥戦法」とは

関東から越後へ帰還した上杉謙信はすぐに大軍を率いて川中島へ向かって出陣します。

武田信玄は上杉謙信が川中島方面へ向かっているとの情報を得ると、海津城を救うため軍勢を率いて出陣。

こうして両軍は川中島で戦いを繰り広げることになります。

上杉謙信は海津城の近くに有る妻女山へ登って陣取ります。

武田信玄は上杉軍が妻女山に陣取ったことを知り、上杉軍を挟み撃ちにする作戦を展開するため軍勢を二つに分けます。

妻女山方面へ向かって進軍し、山の裏手から上杉軍を攻撃し、山から上杉軍を降ろすことを目的とします。

もう一つの部隊は武田信玄自ら率いて山から降りてきた上杉軍を攻撃し、妻女山から降りてきた武田軍と挟み撃ちにする作戦を開始。

武田信玄が取ったこの作戦を「啄木鳥戦法」と言います。

上杉謙信が取った行動は?


上杉謙信は武田軍が不審な動きをしていることを知り、夜中妻女山を全軍で下山。

上杉謙信はどうして武田軍が不審な動きをしていると知ることができたのか。

それは武田軍が食べる時に薪などを燃やすときに発生する煙の量によって、知ることができたそうです。

山の上からなら海津城から上がる煙の量までバッチリ見ることができます。

そして上杉謙信は従来の煙の量と妻女山襲撃時の煙の量を比較し、武田信玄が攻撃してくる時期が近いことを知ります。

こうして上杉謙信は武田軍の襲撃を察知し、九月十日の早朝、山を降りた上杉軍は全軍で武田軍へ攻撃を行います。

両軍激しく戦いどちらが勝ったのかわからない!?

上杉謙信は武田軍が突然の上杉軍の攻撃に混乱したことがきっかけで、両角虎定(もろずみとらさだ)や武田信繁(たけだのぶしげ)など多くの武将が打ち取られてしまいます。

しかし武田軍は妻女山からの別働隊が参加したことで、上杉軍からの攻撃を退けます。

こうして両軍は川中島で激戦を繰り広げた後、撤退していきます。

上杉謙信は「第四次川中島」の戦いの後、「第四次川中島」の戦いで功績を挙げた諸将へ褒美や感謝状を与えていますが、実質的な土地の恩賞を与えている書状はありませんでした。

対する武田信玄は諸将へ感謝状と共に川中島より北の土地を与えることを約束する書状を与えています。

このため「第四時川中島の戦い」において、合戦における勝利は上杉謙信。

ですが、実質的に土地をとって戦略的に勝利をおさめたのは武田信玄と言えるのではないでしょうか。

戦闘に主眼を置くならば上杉謙信の勝利ですが、戦を土地を多く取った方に勝ちを求めるのであれば武田信玄の勝利だと思います。

この点は読者の皆様の主眼の置き所によって勝利の意義が変わってくると思います。

武田信玄の逃げ勝ち!?「第五次川中島の戦い」


最後の川中島の戦いとなる「第五次川中島の戦い」を紹介します。

この戦いは上杉謙信が飛騨(ひだ)に勢力を伸ばしていた武田信玄を越中にまで勢力を伸ばさせないようにするために起きた戦いです。

上杉謙信は川中島へ出兵しますが、北信濃や川中島のほとんどを治めている武田信玄が決戦を仕掛けてこなかったため、武田軍へ無理な攻撃を行いませんでした。

武田信玄も上杉謙信が攻撃を仕掛けてこなかったので、無理な攻撃を控え、上杉謙信率いる軍勢と向かい合うだけに留めます。

この結果、両軍は六十日ほど滞在しただけで、大きな戦に発展することなく、引き分けで終わることになります。

武田信玄が無理やり上杉軍へ攻撃しないで、逃げに徹したことで勝利を得た珍しい戦いと言えるでしょう。

管理ネコ・ボスのまとめ


ボス「今回は武田信玄と上杉謙信が激闘を繰り広げた川中島の戦いについて紹介したにゃ。」

ボス「両軍は激しく戦ったのはたった一回だけでしたが、戦国時代の当時あれだけの激闘を行ったのは珍しく、大名が本気で戦うと「第四次川中島の戦い」のような結末を迎えてしまうかもしれないにゃ」

ボス「だから戦国時代の大名はある程度の損害が出るとすぐに戦を引き上げてしまったのかもしれないにゃ」

参考文献 ミネルヴァ書房 武田信玄など

このブログを検索

2021年大河ドラマ「晴天を衝け」

オススメ歴史小説の本棚

アーカイブ

自己紹介

自分の写真
このブログの管理人はプロフィール写真に載せている白猫・ボス。 ブログの表紙のネコは私の友達だよ そしてブログの文章を書いているのはボスの飼い主であるニャンコが書いています。 猫が管理している日本初の(ホントかにゃ??)歴史小説や戦国時代などを紹介するサイト。 ちぐはぐコンビで不定期に更新していますので、見てください。 ボスの日常もたまに紹介するかも・・・・

注目の投稿

「麒麟がくる」ついに黒田官兵衛がやってくる!?一体何した人なの?

こんばんわにゃんこです。 最近少しづつ暖かい日々が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。 さて「麒麟がくる」もついに最終回を迎える事になりましたが、1人の武将が登場することになり、話題を呼んでいます。 その武将とは黒田官兵衛(くろだかんべえ)です。 黒田官兵衛は羽柴秀吉...

QooQ