突然ですが、武田信玄と言えば、騎馬隊が有名だと思います。
しかし武田家は騎馬隊だけに頼って勝利を得ていたわけではなく、鉄砲隊を大事な戦に投入して勝利を得ていたのをご存知でしょうか。
そこで今回は武田家にも鉄砲隊に関する事や武田家にはいつ頃鉄砲を知ったのか等を歴史に詳しくないニャンコが分かりやすくまとめて、ご紹介していきたいと思います。
武田家はいつ鉄砲を知ったの⁉
戦国時代の日本において、外来から輸入された新兵器・鉄砲。
鉄砲が日本に伝わったのは1543年に伝わったとされ、その後日本全国へと普及されていきます。
武田家も新兵器である鉄砲だけの特殊部隊を編制して合戦に導入していましたが、いつ頃武田家に鉄砲が伝わったのでしょうか。
武田家に鉄砲が伝わったのは武田信玄の父・武田信虎(たけだのぶとら)時代です。
武田信虎は四国の浪人衆から鉄砲をもらったことがきっかけで、はじめて武田家に鉄砲が伝わることになります。
その後武田信玄の時代になると、鉄砲に詳しい技術者を招き、鉄砲の射撃訓練を家来達にさせて、鉄砲隊編制に意欲的に活動していくことになります。
武田信玄はいつ鉄砲隊を戦に投入したの?
武田信玄は父・武田信虎の時代に鉄砲を知り、その後鉄砲隊を編制するべく、家来達に鉄砲の射撃術を習わせていきます。
こうして武田信玄は鉄砲隊を導入する為、意欲的に行動を起こしていきますが、いつ頃から鉄砲隊を編制したのでしょうか。
武田信玄が初めて鉄砲隊を合戦に参加させたのは上杉謙信と戦った川中島の戦いの時です。
川中島の戦いは5回行われていますが、武田信玄が鉄砲隊を参加させたのは第二次川中島の戦いの時です。
武田信玄は第二次川中島の戦いの時、上杉謙信から寝返って仲間になった旭山城へ援軍として300人の鉄砲隊を派遣。
武田信玄の鉄砲隊は第二次川中島の戦いの以降も重要な戦場において、鉄砲隊を大量に派遣して、騎馬隊と並ぶ主力部隊として活躍していきます。
武田信玄の旗本鉄砲隊と家来衆の鉄砲隊
ここからは余談になります。
武田家には二種類の鉄砲隊が存在していました。
一つ目は武田信玄直属の鉄砲隊です。
この部隊は、武田信玄が任命した大将に管理させ、いつでもどこでも戦場へ投入できるような部隊でした。
武田家には武田信玄直属の鉄砲隊の他にもう一つ、武田家の家来達が率いる鉄砲隊があります。
家来達が率いている鉄砲隊は、鉄砲の技術に優れた決められた人数を率いて戦場へ向かいます。
戦場に到着した家来が集めた鉄砲隊は主人の元から離れて、各家来の鉄砲衆と合流して、鉄砲隊として運用されていくことになります。
このように武田家には二つ種類の鉄砲隊が存在していました。
鉄砲隊を編制するも諸道具に困る武田家
ここまで武田信玄が鉄砲隊を編制して戦に導入している事を説明してきました。
しかし武田信玄にとって困ったことがありました。
それは鉄砲を放つために必要な鉄砲本体・火薬・弾薬の三つを確保し続ける事が困難だったことです。
武田信玄は困りながらも一生懸命これらの諸道具を仕入れていましたが、一体どのようにして仕入れていたのでしょうか。
なりふり構わず仕入れた鉄砲
武田信玄は鉄砲の本体を仕入れる為、伊勢(いせ)の商人から鉄砲を仕入れたり、徳川家の領内にある商人から鉄砲を購入していました。
他にも武田信玄は村民が鉄砲を提供していた場合、その村人の借財を免除するとの布令を出しています。
このように武田信玄はなりふり構わず、新兵器の戦力向上に向けて意欲的に行動していました。
購入・生産・贈答品で賄っていた火薬
鉄砲を使用する際に必需品となる火薬。
武田信玄はこの火薬を一体どのようにして手に入れていたのでしょうか。
武田信玄は鉄砲隊を編制する際、武田家が用意して、家来に配布していたようですが、火薬の入手が困難になってくると家来達が自分たちで調達するように命令。
しかし家来達が実費で火薬を購入するにも限度があります。
そこで武田家は購入するのが難しいのであれば、「自分たちで作ればいいじゃん」と思いつきます。
武田家が領地内で火薬を製造していた史料は今のところありませんが、製造できる力を持っていた事を示す資料が存在していました。
それは中国地方の覇者である毛利家は、馬の飼育場所である馬屋の土を治めるように命令を出していました。
馬屋の土には火薬を製造する事が出来る塩酸カルシウムが含まれてる為、毛利家では自国で火薬の製造していた可能性があります。
そして武田家は騎馬隊として馬を多く保有していますので、馬屋の土を使って火薬の製造をしていた可能性があります。
武田家に関する火薬調合の資料が見つかっていない為、断定することは出来ませんので、今後の研究によって明らかになっていくと思われます。
更に武田家は各地の豪族から火薬の材料で塩硝をプレゼントされていましたので、これらの塩硝を使って火薬を調合し、鉄砲隊へ配布していたと思われます。
他国からの購入で賄っていた弾丸
鉄砲に必要な物は鉄砲本体と火薬だけでなく、弾丸が必要です。
武田信玄は弾丸を製造するよう家来へ命じていましたが、弾丸を継続的に製造するためには、鉛を生産する事が出来る鉛山が必要です。
しかし武田家には、鉛山が無かった為、多くの弾丸を自国で製造する事が出来ず、弾丸を他国からの購入に頼りきりでした。
ですが、鉛はとっても高価でいくらお金があっても足りない状況でした。
更に各国の大名が鉄砲隊を編制していた為、中々仕入れる事が難しい状況でした。
その為武田信玄は弾丸に対する考え方を改める事にします。
弾丸って鉛じゃなくてもいいんじゃね!!
武田信玄は鉛を確保する事が難しい状況を打破する為、銅を鉄砲の弾丸にする事に決めます。
幸い銅は銭に使われていましたので、自国の領土にある神社へ「流通に適さない悪銭を渡してください。渡してくれれば、こちらも相応のお礼をします」と命令を出します。
武田家から命令を受けた神社は悪銭を武田家へ提供。
武田家は神社から提供された悪銭を鋳つぶして、鉄砲の弾丸として再利用していました。
その証左として、山梨県にある長峰砦(ながみねとりで)から武田家が使用した鉄砲の弾丸が発掘。
この鉄砲の弾丸を分析してみると中国産の青銅製の銅玉成分が解析されたそうです。
このことから武田家では鉄砲の弾丸に鉛の他に鉛を用いて鉄砲隊に支給していました。
ニャンコのまとめ
さて今回の記事をここでまとめていきたいと思いますので、ご覧ください。
武田信玄も鉄砲隊を持っていた??あまり知られていない武田家鉄砲隊をご紹介!!
- 武田信玄は鉄砲隊を各地の合戦に投入していた
- 武田家は武田信虎の時代に鉄砲を持っていた
- 武田家は鉄砲隊を直属部隊と家来衆の鉄砲隊の二つを持っていた
- 武田家は鉄砲本体・火薬・弾丸の確保にかなり苦労をしていた
以上になります。
このブログでは今回の記事の他にも
などの記事も公開していますので、お時間ある時に読んでいただければ幸いです。
それでは皆さん美味しいバームクーヘンをほおばりながら一緒に次回もお会いしましょう。
参考文献 吉川弘文館 検証長篠合戦など
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