ニャンコです。
今回ご紹介するのは「麒麟がくる」に登場する可能性が一番高い浅井長政についてお話したいと思います。
浅井長政はお市の方との間に三人の女子を授かります。
長女:茶々・次女:初・三女・江ですが、浅井長政に息子はいなかったのでしょうか。
そして織田信長に浅井家が滅ぼされた後、浅井長政の息子達はいったいどうなったのか。
今回の記事では上記二つの点を歴史に詳しくないニャンコが分かりやすくまとめてご紹介していきたいと思います。
浅井長政に息子はいたの?
浅井長政に息子はいたのでしょうか。
色々とニャンコの持てる力を尽くして資料を調べていった結果、浅井長政には息子が三人いた事が判明しました。
それでは早速ご紹介していきたいと思います。
浅井長政の長男は万福丸と命名された可愛らしいお名前が特徴的な男の子がいました。
そして次男は万寿丸(まんじゅまる)。
三男は喜八郎(きはちろう)と言います。
彼ら三人が浅井長政の息子として存在が確認されていますが、どのように成長していったのでしょうか。
それぞれの息子達についてご紹介していきたいと思います。
浅井長政の長男・万福丸は串刺しの刑で殺害されてしまう
浅井長政の長男・万福丸は浅井家の本拠地である小谷城が落城した際、お市の方と一緒に逃げず、浅井家の家来達と共に小谷城から逃亡します。
織田信長は家来達へ万福丸を探すように命令。
その結果万福丸は織田家の家来に見つかってしまうのでした。
織田信長は万福丸を発見すると関ヶ原(せきがはら)に刑場を作り、万福丸を磔(はりつけ)て見世物にした後、串刺して殺害してしまいます。
享年10歳と若くして亡くなってしまうのでした。
所で織田信長はどうして10歳の少年にこれほど残虐な方法で殺害したのでしょうか。
その理由は浅井長政の長男で、物事が分かる年齢だったことが原因です。
もし万福丸が生後1歳など若かったら織田信長も見逃したのかもしれませんが、10歳程ですと物事をしっかりと理解でき、15歳程になれば、もしかしたら自分の父を討った織田信長へ復讐するかもしれません。
その為、織田信長は自らに敵対する可能性の高い万福丸に対して、残虐な行いで殺害する事で、浅井家の滅亡から逃れた家来達に反乱させないようにするためにあえて行ったのでした。
こうして浅井家の長男・万福丸は織田信長によって殺害されてしまいますが、他の子どもたちも殺害されてしまったのでしょうか。
浅井長政の次男・万寿丸は織田家から見つからず逃亡
浅井長政の次男・万寿丸は兄である万福丸と同様に小谷城が織田家の攻撃を受けて占領される前に逃亡します。
万寿丸は兄と同じところに逃げ込まず、浅井家の領地にある福田寺へ逃げこみます。
その後万寿丸は織田家の捜索の目を何とかかいくぐって、何とか生き延びることに成功するのでした。
逃げ延びた万寿丸は正芸(しょうげい)と名前を変えて福田寺の住職として戦国時代を生き抜いていったそうです。
豊臣家に仕えた浅井長政の三男・喜八郎
浅井長政の三男である喜八郎は長男・万福丸、次男・万寿丸と同じように小谷城から逃げることに成功します。
その後喜八郎はすくすくと成長していき、なんと羽柴秀吉の四男である羽柴秀勝(はしばひでかつ)に仕えています。
しかし羽柴秀勝は若くして亡くなってしまい、喜八郎の居場所が無くなってしまいますが、羽柴秀吉の弟である羽柴秀長(はしばひでなが)に仕えています。
更に喜八郎は羽柴秀長が病で亡くなった後、五奉行の一人である増田長盛(ましたながもり)に仕えて、豊臣政権で生き残っていくのでした。
大坂の陣で徳川家康と戦う喜八郎
喜八郎は五奉行の一人増田長盛に仕えていました。
しかし増田長盛は関ヶ原の戦いで西軍である石田三成に加担していた事が理由で領地を没収されてしまいます。
そのため喜八郎は増田家をクビになってしまいます。
その後喜八郎は徳川家に敵対する豊臣家を助ける為、大阪城へ入城。
喜八郎は大坂の陣で真田幸村や後藤又兵衛(ごとうまたべえ)達と一緒に徳川家康と戦います。
ですが、豊臣家は徳川家に勝つ事ができず滅亡。
喜八郎の姉であった淀殿も豊臣秀頼と一緒に亡くなってしまうのでした。
喜八郎は大坂の陣で生き延びることに成功しますが、再び職を失ってしまい困ってしまいます。
この喜八郎を救ったのが浅井長政の次女である初でした。
初は旦那・京極高次の跡を継いだ息子・京極忠高に「弟を京極家に引き取ってくれないだろうか」と説得します。
京極忠高は母である初の言う事を聞いて喜八郎を京極家へ召し抱える事にしますが、一つ条件を出します。
京極忠高が出した条件は「母者の弟さんを京極家に迎え入れるのは構いませんが、武士として仕えさせることは出来ませんので、出家してもらうことになりますが、いいですか」と提案。
初と喜八郎は京極忠高の条件を受け入れ、無事に京極家に仕える事が出来、そのまま余生を過ごしていくのでした。
浅井家の息子として生き延び、兄たちとは違い波乱な人生を送った浅井喜八郎をご紹介しました。
ニャンコのまとめ
今回は浅井長政の息子達についてご紹介してきました。
ここからは今回の記事のまとめをしていきますので、ご覧ください。
浅井長政の息子が生きていた⁉浅井長政の息子達を五分で紹介!!まとめ
- 浅井長政には万福丸・万寿丸・喜八郎の三人の息子がいた
- 万福丸は織田信長によって殺害。
- 万寿丸は生き延びて寺の住職に
- 喜八郎は戦国武将となって徳川幕府の時代まで生き残る
以上になります。
そしてここでご紹介しませんでしたが、浅井長政にはもう一人息子がいました。
浅井家の血を引く浅井国幹が残した「浅井系統一覧」と呼ばれる書物によれば、円寿丸と呼ばれる息子がいたようです。
しかし円寿丸に関する資料が資料が残っていない為、本当に居たのかどうかは定かになっていません。
このブログでは今回の記事の他にも
などの記事もご紹介しておりますので、読んでいただけるととっても嬉しいです。
それではまた次回もこのブログでお会いしましょう。
参考文献 「戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯」角川選書など
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