新しい家を探さなくては行けなくて、中々ブログを更新する事が出来ませんでした。
大変申し訳ありません。
少し落ち着いてきたので今回少しずつブログを更新していきたいと思います。
所で皆さん話は変わりますが、コロナウィルスの影響で放映が中止されていた「麒麟がくる」ですが、ついに放映再開の日程が決まったのをご存知でしょうか。
「麒麟がくる」が放映されるのは8月30日からです。
そこで今回は「麒麟がくる」放映再開を祝して「麒麟がくる・越前編」の重要なシーンとなるであろう金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)についてご紹介したいと思います。
この戦いは浅井長政と朝倉義景の連合軍に織田信長が敗北した戦いです。
この時織田信長は一歩間違えれば、命を落す危険のあった戦いですが、何とか自分の領土へ逃げることに成功。
この時織田信長はどうやって危機的状況を脱出する事が出来たのかについて、歴史に詳しくないニャンコが分かりやすくまとめてご紹介していきたいと思います。
金ヶ崎の戦いをざっくりご紹介
織田信長は金ヶ崎の戦いで命からが脱出する事が出来ましたがどうやって脱出する事が出来たのでしょうか。
その理由をご紹介する前に金ヶ崎の戦いが起きた経緯についてザックリご紹介していきたいと思います。
織田信長は足利義昭(あしかがよしあき)を将軍の位に復帰させた後、各地の戦国大名達へ「京都へ来て将軍様に挨拶するように」通達を出します。
この通達を受けて松永久秀(まつながひさひで)、三好家(みよしけ)、徳川家など多くの大名が自ら将軍の元へあいさつに来ました。
また遠くの戦国大名達は使者を派遣して足利義昭に挨拶をしています。
しかし京都へ来れる位置なのに足利義昭に挨拶しない大名もいました。
朝倉義景(あさくらよしかげ)も足利義昭に挨拶しに来ない一人でした。
織田信長は朝倉義景が足利義昭に挨拶しに来ないことを理由にして、朝倉家を倒す為、大軍を率いて出陣。
織田軍は朝倉家の領地へ侵入すると各地の朝倉家の城を次々と落としていき、連戦連勝していきます。
ですが、織田信長が朝倉義景の領地へ侵入した事を苦々しく感じていた戦国大名が居ました。
それは織田信長の妹であるお市の方と結婚した浅井長政です。
浅井長政は朝倉家と長い期間同盟関係を結んでおり、織田家が朝倉家を攻撃するのであれば一言言って欲しいと織田信長と同盟する時に条件を出していました。
織田信長は浅井長政との条件を承諾して同盟したにもかかわらず、浅井長政に一言も言わずに朝倉義景を倒す戦を始めてしまいます。
浅井長政は織田信長が自分との約束を破った事に激怒して、朝倉家に味方して織田信長率いる大軍を攻撃。
織田信長は後方から浅井長政から攻撃を受けた事に驚き、数人のお供を連れて戦場から退却してしまいます。
この時、織田信長は木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)、明智光秀達に「朝倉・浅井の攻撃を防ぐように」と命令を残して戦場を後にします。
連合軍の追撃を防ぐ
木下藤吉郎・明智光秀達は織田信長の命令を受けて、朝倉・浅井の厳しい攻撃を何とかしのぎ、織田家全軍を逃がすことに成功しました。
木下藤吉郎や明智光秀達が活躍し戦いを「金ヶ崎の戦い」として呼ばれることになります。
この戦いは「麒麟がくる」の主人公である明智光秀も登場していますので、「麒麟がくる」でも放映される可能性が高い戦いのシーンだと思います。
こうして織田信長は木下藤吉郎や明智光秀達の必死の戦いのおかげで、朝倉・浅井の連合軍から逃れる事が出来ましたが、彼らだけが活躍したわけではありません。
むしろ本当の活躍は木下藤吉郎や明智光秀達ではなくこれから紹介する人物だと言えます。
金ヶ崎の戦いの功労者は松永久秀⁉
織田信長は木下藤吉郎や明智光秀らを戦場に残して少数の人数を連れて、さっさと退却していきます。
織田信長は京都を目指して、全力で馬を走らせていきます。
しかし織田信長が、京都へ帰る為には織田家の味方か定かではない朽木氏(くちきし)の領地を通らなくてはなりませんでした。
もし朽木氏が織田信長を嫌っていた場合、領地を通る事が出来ません。
更に朽木氏が朝倉・浅井の連合軍に味方していれば、織田信長を討ち取ってしまう事も可能でした。
そのため織田信長が京都へ帰れるかどうかのカギを朽木氏が握っていました。
ですが、織田信長は無事に京都へ帰って態勢を立て直し、再び朝倉・浅井連合軍と戦いを繰り広げていきます。
なぜ朽木氏は織田信長に領地の通行を認めたのでしょうか。
それは松永久秀が朽木氏を説得したからですが、どうして朽木氏は松永久秀の説得を受けれいたのでしょうか。
松永久秀が朽木氏を説得できた理由とは
松永久秀はどのようにして朽木氏を説得したのでしょうか。
松永久秀が朽木氏を説得できた理由の一つとして、朽木氏が独立性の強い戦国大名であった事です。
更に朽木氏は足利幕府と深い関係を持っており、足利義輝(あしかがよしてる)が京都から逃亡した際に匿った事もあるように、幕府を尊重する戦国大名でした。
そのため足利幕府の家来となっている松永久秀は朽木氏の説得に有利であり、織田信長が領地を通るように簡単に説得する事が出来たのでした。
もしこの時、織田信長が松永久秀を朝倉家を倒す戦に参加させていなかったら、朽木氏を説得する事が出来ず、織田信長の命も終わっていたかもしれません。
このことを考えると金ヶ崎の戦いの最大の功労者は松永久秀になるのではないでしょうか。
皆さんはどのように思いますか。
ニャンコのまとめ
今回は金ヶ崎の最大の功労者である松永久秀についてご紹介しました。
松永久秀はその後織田信長を裏切って反乱を起こすのですが、この時はまだ織田信長に敵対する気持ちをサラサラ持っていなかったかと思われます。
さてここからは今回の記事のまとめについてご紹介していきたいと思います。
「麒麟がくる」織田信長が生き延びたのは松永久秀のおかげ⁉織田信長最大の危機だった金ヶ崎の戦いの裏側をご紹介のまとめ
- 金ヶ崎の戦いの功労者は木下藤吉郎・明智光秀だけではなかった
- 金ヶ崎の戦いの最大の功労者は松永久秀
以上になります。
このブログでは今回のような記事の他にも
- 【麒麟がくる】明智光秀は何歳で亡くなるの!?明智光秀の亡くなった年齢を考察してみた!?
- 「麒麟がくる」浅井長政は織田信長と明智光秀の運命を激変させた人!?浅井長政の経歴をサクッと5分で紹介!!
- 【麒麟がくる】明智光秀・織田信長・徳川家康・木下秀吉などのオールスターが参戦したのに敗北!?金ヶ崎の戦いについて5分で解説
などの記事もご紹介しておりますので、是非ご覧ください。
それではまた次回もこのブログでお会いしましょう。
参考文献 吉川弘文館 信長の天下布武の道など
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