浅井長政(Wikipediaから引用) |
織田信長と明智光秀に関連してくる浅井長政(あざいながまさ)。
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の登場が予想される人物です。
浅井長政は織田信長と明智光秀の人生にも大きな影響を与えますが、一体どのような人物なのでしょうか。
この記事では
- 「浅井長政ってどんな人なんだろう」
- 「麒麟がくるでも浅井長政は登場するの⁉」
などを軸にしながら歴史に詳しくないニャンコが素人目線から、分かりやすく書いた記事になります。
5分でまったり紹介していきたいと思います。
戦に強い人気者・浅井長政
浅井長政は父・浅井久政(あざいひさまさ)の長男として誕生。
浅井家は浅井長政が誕生した頃、南近江(みなみおうみ)の大名である六角氏(ろっかくし)に服従している状態で、浅井長政も六角氏の人質になっていた事もありました。
浅井家が六角氏に服従している状況から脱出するきっかけになったのは、浅井長政が15歳の時です。
浅井長政は六角軍と戦って勝利をつかみます。
この戦いで浅井長政は六角軍に勝利した事で、家来達から人気を集めるのでした。
浅井長政が浅井家の当主へ
浅井家の家来は強敵・六角氏に浅井長政が戦で勝った事で、彼に期待を寄せます。
そして、浅井家の家来達は浅井家の当主であった浅井久政(あざいひさまさ)を隠居させ、浅井長政を浅井家の当主へ推薦。
家来達から推薦された浅井長政は彼らの期待にこたえて、浅井家のトップになります。
家来達から推薦された浅井長政は彼らの期待にこたえて、浅井家のトップになります。
浅井長政と織田信長の同盟
織田信長(Wikipediaから引用) |
浅井長政は浅井家の当主になった頃、斎藤氏を倒して美濃(みの)を領土にした織田信長から「同盟しようぜ」と申し込まれます。
浅井長政は織田信長との同盟を結びたいと考えますが、一つ難しい問題がありました。
それは浅井家の家来達が織田信長との同盟に反対していた事です。
浅井長政は家来達と何度も話し合って何とか家来を説得し、織田信長との同盟を結びます。
織田信長は浅井長政と同盟する事がとっても嬉しくて、妹・お市の方を浅井長政へ嫁がせます。
こうして浅井長政は織田信長と親戚関係を結ぶ事になり、強い絆で結ばれるのでした。
浅井長政は織田信長と一緒に京都へ
織田信長は近江の浅井長政と同盟する事で、京都へ向かう道を確保。
織田信長は越前に逃れていた足利義昭(あしかがよしあき)を迎え入れて、京都へ向けて出陣します。
浅井長政は織田信長の軍勢に加わって京都へ向かいます。
織田信長・浅井長政らの軍は南近江(みなみおうみ)の六角氏を簡単に倒して京都へ到着。
浅井長政は織田信長から「ありがとう。さすが俺が見込んだ弟だ」と感謝された後、自分の領土である近江へ帰還するのでした。
浅井長政が義兄に激怒!!その理由は!?
浅井長政は織田信長の妹、お市の方を奥さんにもらった事で、織田信長の義弟になり、織田家と親戚関係になりましたが、織田信長の他にもう一つ同盟している大名がいました。
それは越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)です。
浅井家と朝倉家は長い間、同盟関係を結んでいました。
しかし浅井長政が同盟を結んだ織田信長と朝倉義景はとっても仲が悪く、互いに嫌いあっていました。
そのため浅井長政は織田信長と同盟する際、一つの提案を持ち掛けます。
浅井長政が織田信長へ「越前の朝倉家を攻撃する時は私に言ってから攻撃してください。」と条件をつけます。
織田信長は浅井長政の提案を受け入れた事がきっかけで、浅井家と織田家の同盟が結ばれていました。
ですが、織田信長は浅井長政に一言も言わないで朝倉家へ攻めこんでしまいます。
浅井長政は義兄である織田信長が自分との約束を破った事に激怒。
更に浅井長政の家来達も怒りを始めます。
こうして浅井長政は織田信長が約束を破ったため、織田信長との同盟を破棄。
そして浅井長政は越前へ攻め込んでいる織田軍を朝倉家と協力して後ろから攻撃します。
千載一遇のチャンスを逃す!!
浅井長政は朝倉家を攻め込んでいる織田軍へ攻撃。
織田信長は浅井長政がいきなり攻撃してきた事にびっくり。
織田信長は自分の命が危ないと感じて、家来たちを残して家来や数人の大名達を連れて逃げてしまいます。
浅井長政は朝倉義景の連合軍と一緒に必死になって織田信長を追っていきます。
しかし浅井長政と朝倉義景は織田信長を討ち取ることができず、逃がしてしまうのでした。
浅井長政・朝倉義景VS織田信長の戦いを「金ヶ崎の戦い(かねがざきのたたかい)」と呼びます。
この戦いは浅井長政が織田信長を討ち取る千載一遇の大チャンスでした。
もし浅井長政と朝倉義景が織田信長をこの戦いで討ち取る事ができれば、足利義昭を擁立して天下を安定させたかもしれません。
また「金ヶ崎の戦い」で浅井長政が織田信長を討ち取っていれば、浅井長政の人生も大きく変化していたと思い割れます。
しかし結果は織田軍に大きな損害を与えるだけで終わってしまうのでした。
織田・徳川連合軍VS浅井・朝倉連合軍の激闘
浅井長政は織田信長との同盟を破棄して「金ヶ崎の戦い」で織田軍に痛撃を与えます。
この「金ヶ崎の戦い」から数か月後、浅井長政は同盟相手である朝倉義景の援軍と協力して姉川の地で織田信長と決戦。
織田信長は徳川家康軍と連合して、浅井・朝倉連合軍と戦います。
浅井長政は織田軍に突撃。
浅井長政の突撃は織田軍を次々と突破して、織田信長の本陣へ迫ります。
しかし朝倉軍が徳川軍の奇襲攻撃を受けて撤退してしまった為、浅井軍は織田信長を追い詰めていたにもかかわらず撤退。
こうして浅井長政は織田信長を追い詰めますが、朝倉軍の撤退により、姉川での戦いに敗北してしまうのでした。
織田軍とにらみ合いを続ける
浅井長政は姉川での戦いに敗北した後も織田信長と敵対関係を継続。
浅井長政は織田信長と各地で小さな戦いが繰り返し行われ、織田軍とのにらみ合いが続きます。
ですが、浅井の領土は着実に織田軍に削り取られていき、家来の中からも織田信長に寝返ってしまう人数が日に日に増えていく状況で、少しづつですが追い詰められていきます。
しかし浅井長政にとってこの苦しい状況を打開するチャンスが西からやってきます。
武田信玄が動く
戦国最強の騎馬隊を率いて領土を拡大していた甲斐(かい)の武田信玄が織田信長を倒すため出陣。
浅井長政は武田信玄と連携するため、織田信長の領土へ攻撃を開始します。
しかし織田信長の家来である木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)の軍勢に撃退されてしまい、戦果を挙げることができませんでした。
更に武田信玄は織田軍の領土へ攻め込まず、甲斐へ撤退してしまいます。
この結果、織田信長は武田信玄の軍勢に兵力を割くことを気にする必要が無くなります。
そのため浅井長政は以前よりも織田軍の激しい攻撃を受ける事になり、厳しい状況に立たされてしまうのでした。
朝倉家滅亡
織田信長は浅井家との決着をつけるため、浅井長政の本拠地である小谷城へ出陣。
浅井長政は織田信長が大軍を率いて小谷城を包囲する前に、同盟者である朝倉義景に援軍を要請します。
朝倉義景は大軍を率いて小谷城近辺の大嶽砦に到着。
こうして浅井長政と朝倉義景の連合軍は織田信長と対決する機会をうかがっていました。
織田信長は朝倉軍が到着すると小谷城の包囲しつつ、援軍にやってきた朝倉軍へ奇襲攻撃を行います。
朝倉軍は織田軍の奇襲攻撃を受けて撤退してしまいます。
織田信長は撤退していく朝倉軍を追いかけていき、朝倉家の本拠地である越前まで追撃。
朝倉軍は途中で織田軍に反撃することも態勢を立て直す事もできず、滅亡してしまうのでした。
浅井長政の最後
織田信長は朝倉家を滅亡させた後、すぐに小谷城へ引き返して攻撃を開始。
浅井長政は織田信長の総攻撃を受ける前、何度か降伏するように勧告を受けます。
しかし浅井長政は織田信長の勧告をすべて拒否して、小谷城(おだりじょう)で最後の戦いを挑みます。
織田信長は浅井長政が降伏する意思が無い事を認め、全軍に小谷城の総攻撃を命令。
浅井長政は小谷城に籠って織田軍と激闘を繰り広げますが、兵力に大きな差があり勝てず、浅井長政は家来の屋敷で自らの命を断ち亡くなります。
享年28歳でした。
管理ネコ・ボスの一言
ボス「今回は近江の戦国大名・浅井長政について紹介したにゃ。
浅井長政は28歳という若さで亡くなりますが、彼の血脈まで途絶えたわけではないにゃ。
彼には三人の娘が居て、茶々・初・江の三人がいたにゃ。
長女の茶々は豊臣秀吉に嫁ぐことになり、最後は大阪城で亡くなるにゃ。
次女・初は名門京極(きょうごく)家に嫁ぐことになるにゃ。
そして三女・江は徳川家二代目将軍・徳川秀忠と結婚することになったにゃ。
このように浅井家の血脈は浅井長政が亡くなった後も連綿と続いていくことになったんだにゃ。
そして「麒麟がくる」では浅井長政はどのようにして描かれていくのか。
気になるところだにゃ~」
参考文献 「浅井三代」吉川弘文館など
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