ニャンコです。
以前ニャンコは「麒麟がくる」毛利家は誰が登場する!?「麒麟がくる」に登場する毛利家の武将を勝手に予想!!という記事をご紹介させていただきましたが、この記事の中で毛利輝元が「麒麟がくる」に登場する可能性が高い人物であると推測しました。
そこで今回はこの毛利輝元が一体どのような人物であったのかをご紹介してきたいと思います。
毛利輝元を簡単に表すならば「人の意見をよく聞いてやる時はやる人」です。
本当に毛利輝元はニャンコの評価通りの人だったのでしょうか。
この記事は
- 「戦国時代を全然知らないけど、麒麟がくる見て楽しそうだな」
- 「毎日外出できなくて暇だな~」
- 「ちょっとした隙間時間に読めるコンテンツないかな」
今回は「麒麟がくる」で毛利輝元の生涯ではなく、毛利輝元誕生から「麒麟がくる」の最終回であろう本能寺の変までに起きた事柄をご紹介していきます。
毛利元就から可愛がられる幸鶴丸
毛利輝元は毛利元就の嫡男である毛利隆元(もうりたかもと)の長男として誕生。
毛利輝元は幼名を幸鶴丸(こうつるまる)と呼ばれ、ジジ様である毛利元就からめちゃくちゃ可愛がられて成長していきます。
あれ!?毛利隆元が父なのにどうして毛利元就が輝元にそばにいて可愛がっているの?と首を傾げた人も多いと思います。
毛利隆元は非常に忙しく、毛利家家中の法整備や周防(すおう)・長門(ながと)の整備などに着手しており、息子である輝元と一緒に遊んでいる暇なんてありませんでした。
そんな超絶忙しい父・毛利隆元に代わって毛利元就が父代わりになって輝元を養育していきます。
11歳で父を失う
毛利輝元はジジ様・毛利元就から可愛がられすくすくと成長していきますが、11歳の時に父を失ってしまいます。
父・毛利隆元は宿敵尼子氏を討伐する出征途中に亡くなってしまいます。
そのため毛利元就は孫である毛利輝元を毛利家の当主として就任させ、毛利元就が毛利家の軍事と政治を担っていくことになります。
11歳で毛利家の当主となった毛利輝元は不安がっているかと思いきや、毛利元就が補佐をしてくれるので、あまり不安がっていなかったようです。
何はともあれ毛利輝元が毛利家の当主として君臨することになるのでした。
ジジ様の死と宿敵を滅ぼす
毛利輝元は毛利元就に補佐してもらいながら、毛利家の当主として奮闘する毎日が続きます。
しかし毛利輝元の身に再び事件が勃発。
その事件とは輝元を可愛がってくれたジジ様・毛利元就が亡くなってしまった事です。
毛利輝元はジジ様が居なくなったしまった為、かなり大きなショックを受けたと思われます。
その後毛利輝元は吉川元春(きっかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)らに支えられて毛利家を運営していくことになります。
残念な事件ばかり起きる毛利輝元ですが、いい出来事ももちろんありました。
それは宿敵である尼子氏を降伏させて滅ぼした事です。
この結果毛利家は中国地方最大の大名として君臨することになります。
しかし毛利家は中国地方最大の大名になった事により、最大の危機を迎えることになります。
小早川隆景の厳しいしつけ
毛利輝元はジジ様が居なくなった事で、吉川元春・小早川隆景らの重鎮たちに補佐されながら毛利家を運営していくことになりました。
しかし毛利輝元は何事も経験が足りなかったので、二人の叔父や重鎮たちに頼りっぱなしでした。
そんな毛利輝元を教育していったのが小早川隆景です。
小早川隆景は毛利輝元を一人前の当主とする為、時には厳しく注意したり、平手打ちして鉄拳制裁しながらスパルタ教育を施します。
毛利輝元は小早川隆景の厳しすぎる教育に反抗していましたが、だんだんと小早川隆景の気持ちを察することが出来るようになったため、彼の意見をよく聞いて、少しづつ当主としての力を身につけます。
こうして小早川隆景の厳しい教育を受けながら毛利輝元は一人前の大名となるべく日々奮闘していたのでした。
毛利家包囲網
毛利輝元は宿敵尼子氏を打倒した事により、毛利家の勢力が格段にアップ。
しかし毛利家を打倒しようと考える勢力が各地で暴れまわります。
まず尼子勝久(あまこかつひさ)と山中鹿之助(やまなかしかのすけ)が尼子氏の本拠地であった月山富田城(がっさんとだじょう)へ攻撃。
尼子氏が月山富田城へ攻撃を行うと周防・長門の大名であった大内氏の残党が毛利家へ攻撃を開始します。
更に北九州の毛利家の拠点を奪うべく大友軍も毛利家に攻撃を仕掛けてくるのでした。
この結果毛利家は一斉攻撃を受けることになり、毛利家が包囲攻撃を受ける状況になってしまいます。
しかし叔父・小早川隆景・吉川元春らの重鎮たちは毛利輝元を補佐し、この苦しい状況を打開するべく動き出します。
毛利家の反撃!!
まず毛利輝元は叔父達のアドバイスを受けて、周防・長門を攻撃した大内家を討伐するべく出陣。
毛利軍の激しい攻撃を受けた大内家の軍勢は勝つことができず、敗退してしまいます。
その後毛利輝元は叔父達を連れて尼子氏の残党軍を撃破。
こうして中国地方で毛利家に敵対する勢力を撃退することに成功するのでした。
ですが、毛利家は無傷で勝利できたわけではありません。
毛利家の九州地方の拠点は救うことが出来ず、大友家に奪われてしまうのでした。
しかし毛利家の版図の大部分は守る事に成功し、毛利家が中国地方最大の勢力としての地位を確立します。
織田家とのゆる~い同盟関係
少し話を巻き戻します。
巻き戻る時間は毛利輝元が毛利家当主に就任した頃です。
毛利輝元は毛利家のかじ取りを毛利元就と一緒にやっておりました。
二人で一緒に毛利家を運営していた頃、畿内を制圧した織田信長との交流が始まります。
毛利家が尼子氏や大内氏らの攻撃を受けて危機的状況に陥っていた頃、織田家が丹波方面へ出陣し、毛利家の敵が増えないよう敵軍を牽制。
更に織田信長は毛利元就が亡くなった事を知ると、小早川隆景へ元就の死に対して弔意の意を述べた手紙を送っております。
このように毛利家と織田家は交流を行いますが、積極的な交流ではなく現代で表すならば浅い関係を構築。
そして浅い関係ながらも毛利家と織田家はいつ破れてもおかしくないゆる~い同盟関係が成立しておりました。
織田信長の嫌がらせに我慢する毛利輝元
毛利輝元は織田家とゆる~い同盟関係を結んでいました。
そんな中、毛利輝元は織田信長から色々な嫌がらせを受けます。
例えば毛利家と敵対していた浦上氏に対して、支配権を確約した書状を送り付けた事です。
毛利輝元は自分と敵対している大名へ支配権確約の手紙を送った事にイラっとしましたが、グッとこらえて浦上氏と敵対している宇喜多氏を支援。
浦上氏と宇喜多氏は織田と毛利の代理戦争の様相を示し、最終的に宇喜多家が浦上氏を追放して勝利を得ることに成功します。
また織田信長は毛利家と敵対している尼子氏をばれないように支援しておりました。
毛利家はこの事実を後に知る事になりますが、織田信長の嫌がらせに段々と怒りを募らせていくことになります。
そんな中、毛利家を頼ってあの人物がやってきます。
毛利輝元ついに織田家と決別!!
毛利家に織田信長と戦った足利義昭がやってきます。
織田家と毛利家の間で足利義昭を受け入れない約束をしていました。
毛利輝元は織田信長の度重なる嫌がらせに頭に来ていた事もあり、足利義昭を受け入れて織田信長と戦う決断を下します。
毛利輝元を支えていた吉川元春・小早川隆景ら毛利輝元の意見に賛成。
こうして毛利家と織田家の戦いが始まります。
毛利家をなめんじゃね~!!
毛利輝元は織田信長と長年戦い続けてきた本願寺からの要請を受けて兵糧の援助を行うため、自慢の毛利水軍を出陣させます。
毛利水軍は木津川で織田水軍と決戦。
毛利水軍の圧倒的な火器に織田水軍はボコボコにされてしまいます。
こうして毛利水軍は無事に本願寺へ兵糧を援助し、悠々と帰っていくのでした。
今まで織田信長に嫌がらせを受けていた毛利家が本気を出した戦いでした。
更に毛利輝元は織田家に味方していた播磨(はりま)の別所家を毛利家の味方へ引き込むことに成功。
この結果、毛利家攻略を命じられていた羽柴軍は苦戦を強いられることになります。
また毛利輝元は尼子氏再興に動いていた残党軍を上月城(こうづきじょう)へ追いつめることに成功。
織田軍は羽柴秀吉や荒木村重(あらきむらしげ)らが援軍にやってきていましたが、彼らを退けて上月城を降伏させ、尼子氏との長きに渡す戦いに終止符を打ちます。
そして毛利輝元は織田家の内部に大きな鉄槌を与えるため、摂津の荒木村重に対して「織田信長を裏切って毛利にこないかい」と調略を開始。
荒木村重は毛利輝元の誘いに乗って織田信長に対して謀反を決行します。
こうして織田家の内部にも敵対勢力を作り出すことに成功した毛利輝元。
毛利輝元は織田軍を次々に破って今までのうっ憤を晴らすような活躍を見せ織田信長に対して「毛利家なめんじゃね~」と声高に叫びたかったと思います。
しかし毛利家の絶頂もここから一気に下がっていくことになります。
味方を失う毛利輝元
毛利輝元はイケイケどんどんで調子に乗ったのか上洛して足利幕府を再興しようと思い立ち、上洛するべく出陣の日まで決定しました。
この毛利輝元の行動に待ったをかけた人物が居ました。
それは小早川隆景です。
小早川隆景は毛利輝元へ「大友家の調略によって反乱が国内に起きているのに、これ以上領域を広げるのは良くない。」と厳しく忠告。
毛利輝元は小早川隆景の意見を受け入れて上洛を打ち切ります。
しかし毛利輝元が上洛を打ち切った事で毛利家に失望した人物が居ました。
それは宇喜多直家(うきたなおいえ)です。
宇喜多直家は毛利輝元が上洛する決断をしたことに喜んでいましたが、上洛が中止された事で毛利家に失望してしまいます。
そして宇喜多直家は毛利家から離脱し、織田家の味方になってしまいます。
また但馬の南条氏も毛利輝元が上洛しない事を知って羽柴秀吉の味方に付きます。
こうして毛利輝元は次々と味方を失い、勢力を縮小してしまうのでした。
どんどん不利になっていく毛利家
宇喜多直家と南条氏が織田家の味方に付いた事で毛利家に不利な状況になってしまいます。
更に毛利家にとって良くない出来事が次々と発生。
まず織田信長に反乱を起こした荒木村重が籠城していた有岡城(ありおかじょう)が陥落します。
また播磨の別所氏が力尽きて羽柴秀吉に降伏し、因幡(いなば)の鳥取城も落城。
そして戦国最強の大名で毛利輝元と同盟を結んでいた上杉謙信が亡くなってしまい、上杉謙信の後継者を巡って越後国内で跡目争いが発生してしまいます。
毛利輝元はどんどん不利な状況になってしまいます。
そんな毛利輝元の不利な状況へ追い打ちをかけるような事態が発生。
それは備中へ羽柴秀吉の軍勢がやってきて、次々と毛利家の支城を落城させて備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を水攻めして包囲してしまうのでした。
明智光秀に救われた毛利輝元
毛利輝元は備中高松城を救出するため、吉川・小早川の軍勢を合わせて総力で出陣しますが、羽柴秀吉軍が厳重に備中高松城を包囲している為、助け出す事が出来ませんでした。
毛利輝元は叔父二人に相談しますが、打開策を見出すことが出来ないまま月日だけが過ぎていきます。
そんな中、羽柴軍から講和交渉を提案してきます。
毛利輝元は羽柴秀吉の提案を受け入れて備中高松城の城主・清水宗治を自害させて何とか危機的状況を脱出するのでした。
なぜ羽柴秀吉は有利な状況であったにもかかわらず、いきなり軍勢を撤退させたのでしょうか。
それは羽柴秀吉の君主である織田信長が明智光秀に討ち取られたからです。
毛利輝元は織田信長が亡くなった事を羽柴軍撤退数日後に知り、羽柴軍を追撃するかもしくは現在の状況を維持するのか協議が始まります。
吉川元春は「羽柴との約束を破棄して追撃するべきだ」と主張。
しかし小早川隆景は「羽柴との約束を守るべきだ」と提言します。
毛利輝元は彼ら二人の意見を参考にして、小早川隆景の意見を採用します。
こうして毛利輝元は羽柴軍を追撃しない決断を下し、状況を見守る事にするのでした。
まとめと毛利輝元の逸話紹介
今回は長々と毛利輝元についてお話しました。
毛利輝元をまとめると以下のようになります。
- ジジ様大好き
- 忍耐力がある
- やる時はやる人
- 家来を見捨てない
- 他人の意見を聞く
この点を押さえておけば武将の多い戦国時代の人物も迷うことなく、毛利輝元と認識することが出来て「麒麟がくる」をより楽しく見ることが出来るのではないでしょうか。
では最後に毛利輝元の逸話を一つご紹介しておしまいにしたいと思います。
毛利輝元は「誠実な人物」でした。
その証左として足利義輝が亡くなって25周忌に仏事を行います。
毛利輝元はなぜ足利義輝の仏事を催したのか。
その理由について毛利輝元は「義輝公の仏事を執り行えば義昭殿も喜ばれるであろう」と述べています。
このことから毛利輝元はとっくの昔に滅んでいる足利幕府に対して、忠義の心を忘れない誠実な人物であったことが伺えます。
いかがでしたでしょうか。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ボス共々厚く御礼申し上げます。
参考文献 「毛利輝元西国の儀任せ置かるの由候」ミネルバ書房など
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