ニャンコです。
「麒麟がくる」はついに斎藤道三と斎藤義龍(さいとうよしたつ)の親子喧嘩が勃発するそうですね。
来週あたりには斎藤義龍が斎藤家の当主になり、明智光秀も越前へ逃亡するのかなと思います。
さて今回は斎藤義龍の息子であり、斎藤家三代目当主となった斎藤龍興(さいとうたつおき)についてご紹介してきたいと思います。
斎藤龍興を一言で表すなら「織田信長を倒すために動き回った活動家」と言えます。
本当に斎藤龍興は活動家と言えるような人物だったのか。
ここでは
- 「斎藤龍興とはどのような人物であったのか」
- 「ほんとは斎藤龍興かなりすごい人だったの!?」
- 「麒麟がくるに今後も登場するであろう斎藤龍興について知りたい」
- 「斎藤龍興は活動家と呼べるような人物だったの!?」
5分ほどでご紹介していきますので、ごゆっくりご覧ください。
斎藤家の家督を継ぐボンクラ当主・斎藤龍興
斎藤龍興出生には色々な説がありますが、ここでは斎藤義龍の嫡男と言う説を採用してお話を進めていきます。
斎藤龍興は斎藤義龍の嫡男として誕生。
父・斎藤義龍は祖父斎藤道三を倒して美濃(みの)の大名になりますが、突然亡くなってしまいます。
そのため父の跡を継いで斎藤龍興が美濃の大名として国を治めていきます。
ですが、斎藤龍興は当主としてできの悪いボンクラ当主でした。
斎藤龍興は美濃の豪族や家来から評判の悪い武将を気に入っていた為、明智光秀などの有能な家来達が斎藤龍興の元を去ってしまいます。
また尾張の織田信長の攻撃を止めさせる事ができず、美濃の国へ何度も攻撃をしてきます。
斎藤龍興はこれらの事が原因で、家来からの信頼を勝ち取る事ができず、家来から「あのボンクラ当主じゃこの先美濃の国も終わりだな」と陰口を叩かれてしまうのでした。
稲葉山城が盗られる!?
斎藤龍興は家来や豪族からの信頼を日に日に失っていきます。
そんなある日、美濃の豪族の一人・安藤守就(あんどうもりなり)の舅である竹中半兵衛(たけなかはんべえ)が稲葉山城を奪ってしまう事件が発生。
斎藤龍興はこの時何をしていたのかわかりません。
でもボンクラ当主である斎藤龍興の事ですから女性と一緒に酒を飲んで遊んでいたのかもしれませんね。
斎藤龍興は竹中半兵衛らに稲葉山城を奪われると、急いで城内から逃亡。
その後斎藤龍興は竹中半兵衛から稲葉山城を返してもらい、この事件は一件落着。
ですが、稲葉山城が陥落した事によって、斎藤家の力はみるみる弱っていくことになります。
美濃の国から追い出された斎藤龍興
斎藤龍興は稲葉山城へ帰り、再び美濃の大名として復帰しますが、以前のような強い美濃の国ではありませんでした。
その原因は織田信長にありました。
織田信長は斎藤家の家来や美濃の豪族達を次々と自分の仲間へと引き込んでいきます。
斎藤龍興は自分の味方が減っている事なんて知らず、いつものように過ごしていき、織田信長が美濃へ攻撃を仕掛けてくると「織田信長を撃退してこい!!」と家来へ命令。
斎藤龍興の家来達は龍興の命令を無視して織田信長に反抗せず、次々と織田家の家来に寝返ってしまいます。
その結果斎藤龍興は稲葉山城を織田信長に奪われてしまい、美濃の国も織田信長にとられてしまうのでした。
斎藤龍興は織田信長に美濃の国を奪われてしまった為、美濃から逃亡します。
しかしここから斎藤龍興はめまぐるしく行動していき、ボンクラ大名だった人物とは思えない別人へと生まれ変わるのです。
織田信長に戦いを挑み続ける!!
織田信長は斎藤龍興を倒して美濃の国を手に入れると京都を制圧し、足利義昭(あしかがよしあき)を将軍の位へ復帰させます。
その頃斎藤龍興は京都に潜伏して三好三人衆(みよしさんにんしゅう)と連絡を取り合って、将軍に復活した足利義昭を攻撃しますが、明智光秀らの奮戦により失敗。
ですが、斎藤龍興はこの失敗にめげず、伊勢(いせ)へ向かいます。
斎藤龍興は伊勢に入ると織田信長に反抗した一揆衆の戦いに参加して、織田軍と戦います。
斎藤龍興は以前協力してもらった三好三人衆が織田信長に攻められている事を知り、伊勢を去って三好三人衆に協力して織田信長を苦しめます。
斎藤龍興は美濃の大名であった頃、ボンクラで家来達からの信頼を得ることができないダメダメ大名でした。
しかし大名の地位から転落した後の斎藤龍興は精力的に織田信長を困らせるために知恵を働かせて、何度も織田信長に戦いを挑み続けた人で、同じ人とは思えない別人のような働きを見せるのでした。
秀逸な作戦計画を立てる斎藤龍興
斎藤龍興は三好三人衆が織田信長によって敗北した事がきっかけで、京都を離れて越前(えちぜん)の大名・朝倉家を頼ります。
斎藤龍興は越前で本願寺の勢力と朝倉家から協力を得ることに成功します。
斎藤龍興は本願寺勢力と朝倉家からの協力を取り付けた事である作戦を思いつきます。
斎藤龍興が立てた作戦は越前の本願寺勢力と朝倉家を引き連れて北から美濃へ侵入。
同時期に伊勢の一向一揆衆が美濃へ向かって攻撃を行う挟み撃ち作戦を計画していました。
ですが、作戦は失敗に終わってしまいます。
その原因は雪でした。
越前は冬の時期になると雪がたくさん降る地域で、斎藤龍興が計画を実行に移そうとしていた頃、雪が大量に降って軍勢が行軍できない程でした。
そのため斎藤龍興が計画した作戦は決行される事無く終わってしまいます。
もし斎藤龍興の立てた作戦が行われていた場合、織田信長はかなり危険な状況に追い込まれていたと思われます。
斎藤龍興が作戦を実行に移そうとしていた時期は浅井長政が織田信長を裏切り、朝倉家と同盟を結んで織田信長と敵対していました。
更に伊勢の一向一揆衆も織田信長に敵対している状況で、織田家の周りには敵ばかりしかいない情勢でした。
この情勢の時に斎藤龍興が立てた作戦が実行に移されていれば、状況によっては織田家が滅んでいたかもしれません。
とても美濃の大名時代ボンクラと言われていた斎藤龍興が立てた計画とは思えないほど、織田家の時勢と状況を考慮した秀逸な作戦であったと言えます。
織田信長を苦しめた斎藤龍興の最後
斎藤龍興は朝倉軍と一緒に浅井長政の救援軍に加わり出陣します。
しかし朝倉軍は織田信長の奇襲攻撃を受けて敗退し、越前へ向かって撤退していきます。
斎藤龍興も朝倉軍と一緒に撤退していきますが、途中で織田軍の攻撃を受けて討ち死にしてしまうのでした。
まとめと斎藤龍興の伝説
斎藤龍興についてまとめをしていきたいと思います。
斎藤龍興をまとめると下記になります。
- 大名時代はボンクラ
- 浪人時代は活動家
- 作戦を立てる能力に秀でた
人物だったと言えるしょう。
また斎藤龍興には伝説が残ってますので、これらを紹介して終わりにしたいと思います。
斎藤龍興は死なずに生き残って越中(えっちゅう)に逃げ延びていたそうです。
斎藤龍興は越中で村を作って、大名になる事を諦めてその地で平穏無事に生活していたそうです。
本当かどうかわかりませんが、斎藤龍興の伝説として残っているお話です。
ボス「今日も見てくれてありがとうニャ。
次回は明智光秀や織田信長、松永久秀とも因縁のある三好三人衆についてご紹介しようかなと思っているにゃ。
楽しみに三好三人衆の記事を待っててくれると嬉しいにゃ~」
参考文献 「人天を守護し仏想を伝えず 斎藤氏四代」ミネルヴァ書房など
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