ついに東京も梅雨入り宣言しました。
これから雨の湿気が強くなる時期ですので、湿気取りシートを購入したニャンコです。
今回はNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で一躍有名になった明智光秀が起こした本能寺の変についてのミスをご紹介したいと思います。
明智光秀は本能寺の変で織田信長を殺害した事により、天下統一のチャンスを得ます。
しかし明智光秀は天下を取る事が出来ず、羽柴秀吉との戦いに敗北してしまい、亡くなってしまいます。
なぜ明智光秀は天下統一できなかったのか
この記事では
- 知将・明智光秀が本能寺の変後に犯した誤算とは
- どうすれば明智光秀が天下を取る事が出来たのか
これらについて歴史の素人であるニャンコが分かりやすくまとめていきたいと思います。
織田信長を倒した明智光秀の三つの誤算とは
明智光秀は織田信長を殺害し、近畿を中心とした領土を獲得し、天下統一に一番近い大名として君臨します。
しかし明智光秀は天下統一を果たすことができず、羽柴秀吉との決戦に敗れ、亡くなってしまいます。
なぜ明智光秀は天下統一ができなかったのか。
それは明智光秀が本能寺の変で織田信長を殺害した後に三つの誤算が起きてしまったことが原因だったとニャンコは思います。
明智光秀の誤算とは
- 細川藤孝と筒井順慶が味方にならなかった事
- 羽柴秀吉がとんでもない早さで近畿へ帰ってきた事
- 味方が少なかった事
です。
今回はこの明智光秀の誤算についてご紹介していきたいと思います。
明智光秀の一つ目の誤算:細川藤孝と筒井順慶が味方にならなかった事
明智光秀は本能寺の変後に犯した一つ目の誤算は、細川藤孝(ほそかわふじたか)や筒井順慶(つついじゅんけい)が味方になってくれなかった事です。
なぜ明智光秀は細川藤孝や筒井順慶が味方になると思っていたのでしょうか。
まずはなぜ明智光秀が細川藤孝が味方になると信じていたのかをご紹介したいと思います。
明智光秀は細川藤孝が味方になってくれると信じていた理由は、明智光秀が細川藤孝と長い間、友人関係を築いていた事と自分の娘を細川藤孝の息子・忠興へ嫁がせている為です。
そのため明智光秀は細川藤孝が味方になってくれると信じていましたが、史実では細川藤孝は明智光秀の味方になる事はありませんでした。
では次に明智光秀がなぜ筒井順慶を味方になってくれると信じていたのでしょうか。
それは明智光秀は筒井順慶の領地である大和(やまと)の統治をスムーズに行えるよう手伝った事と明智軍団の一員であった為です。
ですが、筒井順慶も細川藤孝同様に明智光秀の味方になってくれませんでした。
なぜ細川藤孝と筒井順慶は明智光秀の味方になってくれなかったのでしょうか。
細川藤孝が明智光秀の味方にならなかった理由は??
細川藤孝は明智光秀と友人関係であり、明智光秀の娘と息子・細川忠興(ほそかわただおき)が結婚した事で、婚姻関係があったにもかかわらずどうして明智光秀の味方にならなかったのでしょうか。
それは細川藤孝が明智光秀の配下になる事を嫌っていたからです。
細川藤孝は明智光秀が織田信長に仕える前、細川藤孝の方が身分も立場も明智光秀よりも上でした。
しかし明智光秀が織田信長に仕え、どんどん出世していった事で、立場が逆転して明智光秀の方が立場が上になっていました。
そのため細川藤孝は表面上明智光秀と仲良くしつつも、彼がどんどん出世していく事に嫉妬を感じていたと思われます。
その為、細川藤孝は明智光秀から味方なってくれるよう要請があっても断ってしまいます。
更に細川藤孝は息子の嫁が明智光秀の娘だった為、彼女を監禁。
そして細川藤孝は髪の毛を剃って出家して、明智光秀の味方にならない事を宣言した後、中国地方で毛利家と戦っていた羽柴秀吉へ接近し、味方になる誓約書を差し出すのでした。
筒井順慶はなぜ明智光秀の味方にならなかったのか??
細川藤孝は明智光秀に嫉妬していた為、明智光秀の味方になりませんでした。
では筒井順慶はなぜ明智光秀の味方にならなかったのでしょうか。
それは羽柴秀吉が帰ってきたことが原因でした。
筒井順慶は明智光秀が本能寺の変を起こした時、味方にならなかったわけではなく、少数の兵士を明智光秀の援軍として送っていました。
しかし筒井順慶は明智光秀の元に送っていた援軍を引き上げさせてしまいます。
その理由は羽柴秀吉が毛利家との戦いを打ち切って、京都近辺に戻ってきたからです。
そのため筒井順慶は羽柴秀吉に味方になる旨を伝え、明智軍の味方になるのを拒絶。
このように細川藤孝と筒井順慶は明智光秀の味方にならず、羽柴秀吉の味方になってしまうのでした。
では次に明智光秀の誤算についてご紹介したいと思います。
明智光秀が犯した二つ目の誤算:羽柴秀吉がとんでもない速さで京都近辺に帰ってきた事
明智光秀の誤算二つ目は中国地方で毛利家と戦っていた羽柴秀吉が、とんでもない速さで姫路にまで帰ってきた事です。
羽柴秀吉は明智光秀が本能寺で織田信長を殺害した頃、毛利家の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を水攻めしていました。
羽柴秀吉は明智光秀が織田信長を殺害した事を知ると毛利家と和睦。
その後羽柴秀吉は兵士達を一生懸命走らせて、備中高松城から山城・山崎の230キロを十日間で走破させます。
ある兵士はこの走破中馬に乗っていたそうですが、お尻の皮が破けて激痛に耐えながら馬に乗っていたそうです。
上記のようにこの走破は兵士達にとってかなりキツイ行軍でした。
明智光秀は羽柴秀吉が十日間で中国地方から帰ってくるとは思っていなかった為、戦の準備をしっかりと行っていませんでした。
これが明智光秀の2つ目の誤算です。
明智光秀が犯した三つ目の誤算:他の大名が味方に付かなかった
明智光秀が犯した三つ目の誤算は他の大名が味方に付かなかった事です。
明智光秀は本能寺の変が起こした時、毛利家や上杉家へ使者を派遣して味方になってくれるようにお願いしていました。
しかし毛利家や上杉家は明智光秀の言葉を信用する事が出来ず、味方になりませんでした。
これが明智光秀の三つ目の誤算になります。
明智光秀はどうすれば天下統一できたのか??
明智光秀は本能寺の変を起こした後、誤算だらけでしたが、どうすれば天下統一できたのか。
ニャンコの憶測になりますが
- 近隣の諸勢力に味方してくれるよう説得
- 羽柴軍が帰還できないような状況を作る
これらが成功すれば、明智光秀の天下統一が成功していたかもしれません。
これらについて一つずつご紹介していきたいと思います。
近隣の諸勢力が味方になってくれるように説得する
明智光秀が織田信長を倒した後、天下統一する方法の一つとして、近隣の諸勢力を味方につけることが必要だったと思います。
例えば紀州の雑賀衆(さいかしゅう)の残党や明智光秀とのつながりがあった四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)など比較的、京都に近い諸勢力と同盟を果たし、味方につけるべきであったと思います。
もし明智光秀が雑賀衆を味方につける事が出来れば、雑賀衆が得意としたゲリラ戦を有効活用して、羽柴軍が戻ってきたところを攻撃させる事が出来たかもしれません。
また雑賀衆をゲリラ戦で用いらなくても、彼らの火力を明智軍に編制すれば、羽柴軍との対決でも大いに活躍したと思われます。
では明智光秀が長宗我部元親を味方につけた場合、どうなっていたのか。
長宗我部元親が明智光秀の味方になっていた場合、京都近辺に戻ってきた羽柴軍を後ろから牽制する事が出来ますし、四国へ渡航しようとしていた織田信孝や丹羽長秀(にわながひで)軍を攻撃させる事も可能です。
このように雑賀衆と長宗我部元親を明智光秀が味方につける事が出来ていれば、戦術の幅が広がり、羽柴軍に簡単に敗北するような状況にはならなかったと思います。
織田家の家来衆を味方に付ける工作も大事ですが、それ以外の外部勢力を味方につける事も必要だったと思います。
そのため明智光秀は外部勢力である毛利家や上杉家以外にも、長宗我部元親や雑賀衆などにも協力をお願いすれば、羽柴秀吉との戦いに一度負けたぐらいでは滅亡することなく、持久戦に持ち込めたかなと思います。
羽柴軍が帰還できないような状況を作り出す
次に羽柴軍がすぐに帰還できないように妨害工作を施すことが必要だったともいます。
ではどうすれば羽柴軍を妨害する事が出来たのか。
それは足利義昭を動かして、毛利全軍に羽柴軍を攻撃してもらうのがベストだったと思います。
足利義昭は織田信長に京都から追放された後、毛利家に住まいを移していました。
そのため明智光秀は本能寺の変を起こす直前に足利義昭の元へ使者を派遣して「織田信長を討ったので、毛利家に羽柴軍を攻撃するように要請してください」などの手紙を書いて、足利義昭の協力を仰ぐべきだったともいます。
足利義昭はただでは動かないと思いますので「将軍様が動いてくれて私の作戦が斉こした時は、あなた様を再び将軍にお迎えしたいと思います」などのメリットを伝えれば、足利義昭も動いてくれたのではないでしょうか。
その後明智光秀の裁量次第で、足利幕府を再興するのもいいですし、約束を反故にして、自らが天下人として君臨してもいいかもしれません。
そして足利義昭が必死に毛利家を口説けば毛利家も嫌とは言えないと思います。
もし毛利家が足利義昭の要請に応えた場合、羽柴軍と和睦を結ばず、羽柴軍と決戦を行ったのではないでしょうか。
毛利家と羽柴家は兵力が同数ぐらいでしたので、すぐに決着をつける事が出来ないと思われます。
毛利家と羽柴家が決戦を行っている最中、明智光秀は全軍で京都近辺を制圧。
その後明智光秀は毛利家と戦い終えた羽柴軍と決戦してもいいですし、毛利家と手を結んで羽柴軍を挟み撃ちしてもいいかもしれません。
このように本能寺の変後に明智光秀がニャンコが挙げた戦略の手を打っておけば、戦略の幅が増え、羽柴軍に備えながら、天下統一へ向けての動きもできたのではないでしょうか。
ニャンコのまとめ
今回は本能寺の変後に明智光秀のみに起きた誤算について色々とお話してきました。
今回の記事をまとめると下記のようになります。
- 明智光秀の誤算その1:細川藤孝と筒井順慶が味方にならなかった事
- 明智光秀の誤算その2:羽柴秀吉がとんでもない早さで近畿へ帰ってきた事
- 明智光秀の誤算その3:味方が少なかった事
- 上記の誤算を改善するためにはまず近隣で自分の味方を作る事
- 羽柴軍が帰還できないように妨害工作を行う事
以上になります。
なぜニャンコ程度の頭脳でもこのように色々な事が思いつくのに明智光秀は何もしないまま本能寺の変を起こしてしまったのでしょうか。
やはり明智光秀は織田信長の状況を把握して、突発的に行動してしまったのでしょうか。
明智光秀が勢いに任せて織田信長殺害を起こしたとすれば、明智光秀が色々な手を打たなかった事も納得できるのですが、皆様はどのように思いますか。
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