湿気の多い季節になりましたね。
ウチの編集長ことネコのボスは新しい寝床の押し入れやニャンコのズボンの上でぐっすり寝ています。
ほかのネコたちもそれぞれお気に入りの場所で毎日過ごしている今日このごろです。
さて今回紹介するのは戦国一の美女として知られるお市の方と明智光秀の娘として知られる細川ガラシャどちらがドラマティックな人生を歩んだのかを比較していきたいと思います。
この記事では
- お市の方の人生のドラマティックな人生の紹介
- 細川ガラシャのドラマティック人生の紹介
- 最後に彼女たちの人生を比較してドラマティックな人生を歩んだのかをニャンコの独断と偏見まとめ
以上について歴史の素人であるニャンコが分かりやすくまとめていきたいと思います。
お市の方のドラマティックな人生その1:夫を二度も失う
お市の方は人生の中で二度も旦那さんを失っています。
お市の方の一人目の旦那さんは織田信長の義弟として知られる近江(おうみ)の浅井長政でした。
浅井長政はお市の方と結婚し、織田信長と同盟を結びます。
しかし浅井長政は織田信長と同盟を結ぶ際の約束事を破った事がきっかけで、織田信長との同盟を棄てて敵対。
その後浅井長政は織田信長の攻撃を受けて亡くなってしまいます。
お市の方は浅井長政が滅亡する際、城から娘たちと一緒に救出された為、一命をとりとめますが、仲良く過ごしていた旦那さんを失ってしまうのでした。
その後お市の方は織田信長が明智光秀に討ち取られるまで、兄である織田信包(おだのぶかね)の元で生活していきます。
織田信長が明智光秀に本能寺で討ち取られた後、お市の方は織田家の筆頭家老であった柴田勝家(しばたかついえ)と結婚。
お市の方は娘たちを連れて柴田勝家の居城である北庄城(きたのしょうじょう)で生活する事になります。
ですが、お市の方と柴田勝家の結婚生活も長くは続きませんでした。
なぜお市の方と柴田勝家の結婚生活が長く続かなかったのか。
それは柴田勝家が羽柴秀吉に敗北してしまった事が原因です。
柴田勝家は羽柴秀吉に敗北した事がきっかけで、北庄城で自害して亡くなってしまいます。
柴田勝家が亡くなった時、お市の方も旦那さんと一緒に城で自害して果てるのでした。
享年37歳だったそうです。
お市の方は二人の旦那さんと死別していますが、かなりドラマティックな人生を歩んでいるともいませんか。
お市の方のドラマティックな人生その2:娘たちとの別れ
お市の方には浅井長政との間にもうけた三人の娘がいました。
お市の方の娘はお茶々・お初・お江の三姉妹です。
お市の方は柴田勝家との間に子供がいなかったので、彼女たち三人がお市の方の子供になります。
お市の方は亡くなる前に羽柴秀吉へ「私の子供達の身柄をお願いします」と手紙を書き送ります。
その後お市の方は三人の娘たちに別れを告げた後、自害して果てるのでした。
お市の方が残した三人の娘たちはその後どうなったのか。
彼女たちの人生をちょこっとご紹介したいと思います。
その後お市の方の娘たちはそれぞれ有力な戦国大名の元へ嫁いでいきます。
お茶々は羽柴秀吉の側室として嫁ぎ、お初は名家・京極家の当主・京極高次(きょうごくたかつぐ)と結婚。
そしてお江は三度結婚しており、一度目の旦那さんは織田信長の妹・お犬の方を母に持つ佐治一成(さじかずなり)の元に嫁ぎます。
しかしお江は天下人になった豊臣秀吉の命令により、強制的に離婚させられてしまいます。
その後お江は豊臣秀吉の命令により、豊臣秀勝(とよとみひでかつ)と結婚。
豊臣秀勝は豊臣秀吉の命令で朝鮮半島へ出征した文禄の役(ぶんろくのえき)で亡くなってしまいます。
そのためお江は徳川家康の息子であると徳川秀忠(とくがわひでただ)と結婚することになるのでした。
このようにお市の方の三人娘はそれぞれ有力な大名へと嫁ぎ、現代にまで浅井の血統を保全するのでした。
細川ガラシャのドラマティックな人生その1:監禁させられ父を失う
細川ガラシャのお父さんは「麒麟がくる」の主人公である明智光秀です。
明智光秀は織田信長の命令を受けて、友人で会った細川藤孝の息子・細川忠興(ほそかわただおき)と結婚することになります。
細川ガラシャと細川忠興は結婚した当初仲の良い夫婦関係を築き、幸せな人生を過ごしていました。
しかし明智光秀が本能寺で織田信長を殺害した事によって、細川ガラシャの人生も激変。
細川ガラシャは義父である細川藤孝の命令により、監禁生活を過ごすことになります。
その後細川ガラシャは羽柴秀吉が明智光秀を倒した後、監禁生活を終えることになります。
父・明智光秀が倒された事と監禁生活を余儀なくされた細川ガラシャの人生もかなり、ドラマティックではないでしょうか。
細川ガラシャのドラマティックな人生その2:旦那の嫉妬がヤバイ
細川ガラシャの旦那さんは細川忠興です。
細川忠興は細川ガラシャが大好きで、家来や他人に見せたくなかった為、彼女を隔離して生活させていました。
そんなある日細川ガラシャの部屋の近くにある植木を整える為、植木職人がやってきます。
たまたま植木職人が作業中に細川ガラシャと目が合い、お辞儀をしたそうです。
この時、たまたま細川忠興がやってきて、植木職人が細川ガラシャと目を合わせていた事を目撃。
すると細川忠興は植木職人の元へやってきて、植木職人を殺害してしまいます。
植木職人が殺害された理由は、細川ガラシャと目が合ったという理由でした。
また細川ガラシャは外出する事も禁じられていた為、気軽にランチを食べに行く事もできませんでした。
このように細川ガラシャの旦那である細川忠興は現代の人が考えられないくらい、嫉妬深くい人でした。
外に出れず、人にも会えない生活を強いられていた細川ガラシャはかなりつらい日々を過ごしていたのではないでしょうか。
細川ガラシャのドラマティックな人生その3:悲惨な最期を迎える
細川ガラシャは豊臣秀吉死後、徳川家康と石田三成が激しく争いを始めます。
徳川家康が豊臣家の名を借りて上杉家を討伐する為、西へ向かった際、石田三成が挙兵。
石田三成は徳川家に味方しそうな大名達の妻子を人質に取ってしまいます。
この時細川ガラシャも旦那・細川忠興が徳川家康の味方に付いていた為、人質になってしまいます。
細川忠興は奥さんである細川ガラシャが人質になる可能性を考慮して、「もし石田三成がお前を人質として捕まえに来るような事態になれば、お前は自害しろ」と言い含めていました。
そのため大阪の細川屋敷に住んでいた細川ガラシャの元へ石田三成が「大阪城に来るように」と命令してきた時、屋敷に火を放って亡くなってしまうのでした。
この衝撃は他の大名や石田三成達にも大きな影響を与え、細川ガラシャ死後、徳川家康に味方している大名の妻子たちの締め付けを緩和する政策に転換するのでした。
しかし旦那から死ねと言われた時の細川ガラシャはどのような気持ちでこの言葉を聞いていたのでしょうか。
ショックが大きかったのか。
それとも諦めて従順に聞いていたのか。
こればかりは細川ガラシャ本人に聞いてみないと分かりませんが、皆様はどのように思いますか。
お市の方と細川ガラシャどちらがドラマティックな人生だったのか
ここまでお市の方と細川ガラシャの人生をご紹介してきました。
ここからはお市の方と細川ガラシャの人生どちらがドラマティックだったのかを発表していきたいと思います。
ニャンコの独断と偏見になりますのでご了承ください。
お市の方と細川ガラシャはどちらがドラマティックな人生だったのか。
ニャンコは細川ガラシャの方がドラマティックな人生だったと思います。
その理由は明智光秀が本能寺の変を起こした事がきっかけとなり、監禁生活を余儀なくされた事と監禁生活が解けた後も嫉妬深い旦那のせいで、監禁生活と変わらない日々を過ごさ中くてはならなかった事。
更に細川ガラシャは旦那から「死ね」と言われて亡くなった事を考慮した結果、細川ガラシャの方がお市の方よりもドラマティックな人生を歩んでいたのかなと思いました。
もちろんお市の方もかなりドラマティックな人生を過ごしてきたいと思いますが、細川ガラシャには勝てないと思います。
お市の方も細川ガラシャも私たち現代人の想像を絶するほどキツイ人生を歩んでいた事には変わりないと思いますが、皆様はどちらの方がドラマティックな人生を過ごしてきたいと思いますか。
まとめにゃんのまとめ
今回はお市の方と細川ガラシャについてご紹介してきました。
ここからはこの記事のまとめになりますのでご覧ください。
今回の記事のまとめはこのようになっております。
- お市の方は生涯で旦那を二度も失っている
- お市の方と浅井長政の血統は現代にまで伝わっている
- 細川ガラシャは生涯で監禁されられていた
- 細川ガラシャの旦那・細川忠興は嫉妬深い性格
- 細川ガラシャは嫉妬深い旦那から「自害」を命じられていた
以上になります。
このブログでは他にも
などの記事もご紹介しておりますので、是非ご覧ください。
それじゃまたニャ~
参考文献 毎日コミュニケーションズ「誰も知らなかった江」など
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