武田勝頼はなぜ長篠の戦いで敗北したの?長篠の戦いを5分で分かりやすく考察!!

2020年3月21日土曜日

戦国時代 武田家 武田勝頼

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長篠の戦(Wikipediaから引用)

武田家の二代目当主代理・武田勝頼(たけだかつより)。

彼は父・武田信玄が生存していた頃よりも領土を広げることに成功し、武田の強さを天下に轟かせます。

まさに向かうところ敵なしの状態であった武田軍。

しかし武田勝頼の強さも長篠の戦で敗北したことにより、勢いが止まってしまいます。

巷では長篠の戦に敗北した原因は織田・徳川連合軍が作り上げた馬防柵の内側から、鉄砲の一斉射撃に馬鹿の一つ覚えのように武田勝頼率いる武田軍が、突撃を何度も繰り返した結果、敗北したとされています。

本当に武田勝頼は何度も鉄砲の一斉射撃をわざわざ喰らうために突撃を繰り返したのでしょうか。

今回は武田勝頼が長篠の戦に敗北した原因について紹介していきたいと思います。

武田勝頼はなぜ長篠の戦いを始めたのか??

そもそもどうして武田勝頼は長篠で織田・徳川連合軍と戦うことになったのでしょうか。

それは武田勝頼が三河(みかわ)・遠江(とおとうみ)一帯を再び手に入れるためです。

徳川家康は武田勝頼の父・武田信玄の死後、奪われた領土である三河・遠江一帯を回復するために行動を開始。

武田勝頼は徳川家康が武田家の領土へ攻撃し始めたため、三河・遠江にある武田の領土を守るためと徳川家康の領土拡大を防ぐためなどを理由に出陣するのでした。

武田勝頼は15000程の人数を率いて、手始めに三河の長篠城を包囲。

徳川家康は織田軍の援軍と共に武田勝頼を撃退するために、設楽ヶ原(しだらがはら)へ到着します。

武田勝頼は織田・徳川連合軍がやってきたため、彼らを撃破するために設楽ヶ原へ向かって進んでいくのでした。

これが長篠の戦が行われた経緯です

武田勝頼が長篠の戦で敗北した原因とは

長篠の戦は上記の理由から行われることになります。

史実では武田軍は織田軍の前に大敗北してしまいますが、どうして敗北してしまったのでしょうか。

ここからは武田軍が敗北した原因について考えてみました。

戦う前から負けていた!?その理由は「佐久間信盛の内応と重臣・側近の内部分裂が原因!?」


武田軍はもしかしたら織田・徳川連合軍と戦を始める前から敗北してしまう状況にありました。

一つ目の理由は「武家事紀(ぶけじき)」と言う書物によれば、佐久間信盛(さくまのぶもり)が織田信長の命令を受けて、武田家に内通を偽った事です。

もう一つの理由には「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」によると、武田信玄以来の重臣達と武田勝頼の側近達がしっかりと結束していたわけではなく、互いにいがみ合っていた事です。

開戦前に敗北していた理由をまとめると
  • 佐久間信盛が織田軍から寝返る事を信じていた為、織田軍とたたかった
  • 武田家の家来達が互いにいがみ合って協力していなかった事
この二つが挙げられます。

そしてこのような状況にあった事が武田軍が長篠の戦に敗北した遠因の一つとして考えられます

こうした状況で行われた長篠の戦。

どうして武田軍は長篠の戦で敗北したのか原因を考えてみました。

武田勝頼が長篠の戦に敗北した原因その1:効果的な攻め方が分からなかったから!?

織田信長が考えた馬防柵は戦国時代においてほとんど用いられたことが無く、馬防柵の内側から鉄砲の連射攻撃をする方法の戦法は、独創的な戦い方でした。

武田軍にも鉄砲は配備されており、鉄砲の射撃に対応する戦い方は確立していたと思います。

ですが、武田勝頼は織田信長が考えた野戦築城された陣地への攻撃に対応する方法を見つけることができなかったと思われます。

武田軍は武田信玄以来、野戦において無類の強さを発揮してきました。

しかし野戦ではなく、平野に築城された陣地を攻撃した事はありませんでした。

そのため設楽ヶ原で武田軍が敗北した原因の一つは野戦築城された陣地の攻撃方法が分からず、無謀にも突撃してしまった事で敗北してしまったと考えられます。

武田勝頼が長篠の戦で敗北した原因その2:一族衆の弱さ

武田勝頼が長篠の戦で敗北した原因その2として考えられるのは、武田家の一族衆の弱さが考えられます。

武田勝頼は長篠の戦で織田・徳川連合軍に対する陣形は織田・徳川連合軍を包囲することを目的としていました。

そのため左右の攻撃部隊には勇猛果敢で戦術に優れていた山県昌景(やまがたまさかげ)や馬場信春(ばばのぶはる)、内藤昌豊(ないとうまさとよ)などが配置されていました。

そして武田勝頼率いる中央部隊は一族衆である武田信廉(たけだのぶかど)、穴山信君(あなやまのぶきみ)が配置。

しかし長篠の戦が中盤に差し掛かった頃、中央に配置されていた一族衆達はすぐに撤退してしまいます。

武田勝頼がまだ戦闘を継続する意思を残しているにもかかわらず、一族衆達が勝手に撤退してしまった為、陣形が崩壊してしまった事が原因で敗北してしまったと考えられます。

もし一族衆がもう少ししっかりと戦っていれば、長篠の戦での戦況も少しは変わっていたかもしれません。

管理ネコ・ボスの一言

ボス「今回は武田勝頼が大敗北してしまった長篠の戦の敗北原因について考えたにゃ。

長篠の戦をまとめると
  • 効果的な攻め方が分からなかったから
  • 一族衆が弱かったから
この二つだとボスは思うニャ。

ここからは武田勝頼がどうすれば、長篠の戦に敗北しないで済んだのかゴロゴロしながら考えてみたニャ。

それは武田勝頼が長篠城の包囲を解いて、そのまま帰ればよかったんじゃないかにゃ。

だって武田軍が帰れば織田軍は戦う標的を失って帰るしかないニャ。

また徳川軍も単独で武田軍を追撃できるだけの勇気もなく、兵力もないから退却することになるにゃ。

もう一つは、武田勝頼が設楽ヶ原で織田軍に攻撃するのではなく、織田軍と同じように築城すればよかったんだにゃ。

織田軍は長いこと対峙することが出来なかったと思うんだにゃ。

だって毛利・本願寺(ほんがんじ)などの敵対勢力との戦いが継続している状態だったから、もし武田軍と長期戦になれば、必ず帰らなくちゃいけない状況になったはずにゃ。

織田軍が撤退していけば、武田軍はここぞとばかりに徳川軍へ総攻撃をかけて倒してしまえばいいにゃ。

徳川軍がいなくなれば、徳川の遠江(とおとうみ)・三河(みかわ)を取る事なんて簡単な事だったにゃ。どうしてネコである吾輩が分かるのに勝頼にゃにはわからなかったんだろうにゃ。世の中不思議でならないにゃ。」

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