武田信玄の家臣の中でもっと有名なのは武田二十四将と呼ばれる二十四人の家臣だと思います。
しかし武田二十四将は武田信玄の家臣団で一番偉いわけではありません。
武田信玄の家臣団の組織の中には「両職(りょうしき)」と呼ばれる一番偉い役職があり、この役職には二人の家臣が就任していました。
今回は武田二十四将を上回る「両職」と呼ばれた役職に就いた二人をご紹介したいと思います。
5分で紹介するので、カップラーメンの待ち時間や電車が来るまでの待ち時間など、空いた時間に読んでいただければ幸いです。
「両職」とはどんな役職
武田信玄の家臣団の中で一番偉い「両職」と呼ばれる役職はどのような役割を持った役職なのでしょうか。
「両職」は武田家の領内における治安維持や紛争における裁判などを執行する権利を持った役職です。
では武田信玄家臣団における一番偉い役職である「両職」に就いたふたりをご紹介していきたいと思います。
武田信玄時代最初の「両職」に就いたのは誰!?
武田信玄は「両職」と呼ばれる役職を一定の人物二人にずっと任せていたわけではなく、度々人事異動を行っています。
そのため武田信玄の初期・中期・後期と分割して「両職」に就いた人物を紹介していきたいと思います。
武田信玄が武田家の当主に就任した頃に「両職」と呼ばれる一番偉い役職に就いたのは、板垣信方(いたがきのぶかた)と甘利虎泰(あまりとらやす)です。
しかし彼ら二人は村上義清(むらかみよしきよ)に惨敗した上田原(うえだはら)の戦いで討ち死にしてしまいます。
二人が亡くなってしまったため「両職」が空白になってしまいます。
そのため武田信玄は新たらしく二人の人物を「両職」へ任命するのでした。
二人が亡くなってしまったため「両職」が空白になってしまいます。
そのため武田信玄は新たらしく二人の人物を「両職」へ任命するのでした。
次の「両職」に就いたのは山県昌景・原虎胤
山県昌景(Wikipediaから引用) |
武田信玄が新たに「両職」へ任命したのは武田の赤備えで有名な山県昌景(やまがたまさかげ)と鬼美濃(おにみの)の異名で知られる原虎胤(はらとらたね)でした。
彼ら二人は武田二十四名臣にも名を連ねており、戦での実力や政治に関する経験が多く、武田信玄も板垣信方と甘利虎泰に匹敵する人材として、彼ら二人を任命したと思われます。
「両職」の役職に就いた最後の三人とは
跡部勝資(Wikipediaから引用) |
武田信玄は原虎胤が戦で負傷したことがきっかけで山県昌景と共に「両職」の役職から解任し、違う部署へ移動させます。
その後武田信玄は再び「両職」の役職を担うに値する人物を探すことになります。
武田信玄は今まで「両職」の役職を二人で担当していましたが、今回から三人で担当することに決め、新たに「両職」へ三人の人物を任命。
今回武田信玄に任命された三人は長坂光堅(ながさかこうけん)・跡部勝資(あとべかつすけ)・原昌胤(はらまさたね(原虎胤とは無関係の人物))が「両職」に就くことになります。
長坂光堅は武田信虎時代から武田家に仕えた経験豊富な武将です。
また跡部勝資は武田信玄の側近として活躍し、武田勝頼の時代には大名との外交を担う仕事を担当していました。
更に原昌胤は武田二十四将に名を連ねた人物で、彼も経験をたくさん積んできた武将です。
彼ら三人が「両職」について武田家の治安維持などを担っていくことになります。
管理ネコ・ボスの一言
ボス「今回は武田家で一番偉い役職「両職」を紹介したにゃ。
武田信玄の時代に置かれていた「両職」ですが、武田信玄が亡くなった後、「両職」が任命されていた形跡がないので、もしかしたら勝頼の時代には「両職」制度が廃止されたのかもしれないにゃ。」
参考文献 新人物文庫 武田信玄謎解き散歩など
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