「麒麟がくる」武田信玄は明智光秀に敗北!?信玄が光秀に敗北した原因を5分で解説!!

2020年3月5日木曜日

戦国時代 武田家 武田信玄

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戦国時代においてトップクラスの戦績を残した武田信玄ですが、織田信長の配下である明智光秀に敗北していたのです。

武田信玄と明智光秀は直接戦った事はありません。

ではどうして武田信玄が明智光秀に敗北したのでしょうか。

今回は武田信玄が明智光秀に敗北した理由を5分で紹介したいと思います。

5分で信玄が光秀に敗北した理由を紹介しますので、カップラーメンの空き時間や家事の合間に読んでみてください。


  • 目次
  • 武田勝頼が織田信長に敗北した「長篠の戦い」の負けた原因は二つ
  • 「長篠の戦い」で敗北した原因その1武田信玄が残した遺言
  • 武田勝頼が長篠の戦いに敗北した原因その2「明智光秀の戦術」!?
  • 管理ネコ・ボスの一言


武田勝頼が「長篠の戦い」の負けた原因は二つ

1575年。

武田勝頼は武田軍15000人程の軍勢を率いて遠江(とおとうみ)の長篠城(ながしのじょう)を包囲。

織田信長率いる織田軍30000人と徳川家康(とくがわいえやす)率いる8000人の連合舞台は長篠城を助けるため出陣し、設楽原(したらがはら)へ。

武田勝頼は織田・徳川連合軍が進出してきたことを知り、長篠城攻撃をやめて設楽原へ向かいます。

こうして織田・徳川連合軍と武田勝頼率いる武田軍は設楽原で激突。

武田軍は戦い始め、織田軍を圧倒する攻撃でした。

しかし兵士の数が多い織田・徳川連合軍は鉄砲を連続で交換して発射する攻撃法を行い、少しずつ武田軍を圧倒。

その後武田軍は鉄砲部隊の攻撃により陣形が乱れて維持できなくなり、壊滅してしまいます。

また一説では武田軍が織田軍へ何度も突撃し、鉄砲の一斉射撃によって武田軍が壊滅したとも言われています。

どの説が有力なのかはともかく。

この戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に敗北したことは事実です。

しかし武田勝頼が「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍に敗北した原因は上記で以外にも二つありますので、ご紹介したいと思います

「長篠の戦い」で敗北した原因その1武田信玄が残した遺言


武田勝頼が「長篠の戦い(ながしののたたかい)」で敗北した原因その1は武田信玄の遺言に原因があります。

武田信玄は亡くなった時、武田家の重臣や武田勝頼へ遺言を残しています。

武田信玄は遺言に「勝頼は自分の息子である信勝(のぶかつ)が16歳になったら武田の家督を継承すること。それまで勝頼が陣代(じんだい)として武田家を運営しなさい。」と残しています。

武田信玄の遺言に出てくる「陣代(じんだい)」と言う言葉ですが、Wikipediaで検索してみると「当主が幼少の時に代わりに軍務や政務を統括する者」と出てきます。

と言う事は武田勝頼は武田家の君主代理であり、真の武田家当主ではなく一時的である事がわかります。

武田勝頼が一時的な君主であることと「長篠の戦い」の敗北にどのような関係があるのか。

それは武田勝頼が武田家当主代理であったため、武田信玄のころから仕える一族衆を束ねることができませんでした。

武田信玄の一族衆達は「長篠の戦い」の時に、武田勝頼や武田家の重臣達が戦場に残って戦っているにも関わらず一番早く戦場から離脱しています。

このことから武田勝頼が武田家の一族衆をしっかりと束ねる事ができなかったと思われます。

もし武田信玄が遺言で「勝頼を武田家当主とする」と言明していれば、長篠の戦いの戦況も変わっていたかもしれません。

上記が「長篠の戦い」で敗北した原因の一つです。

そしてもう一つ武田軍が「長篠の戦い」で敗北した原因があります。

武田勝頼が長篠の戦いに敗北した原因その2「明智光秀の戦術」!?

武田勝頼が「長篠の戦い」で敗北した原因その2は明智光秀の戦術にありました。

一説では明智光秀が「長篠の戦い」に参加していないとの説があります。

しかし明智光秀は「長篠の戦い」の後、九州の名族の姓である惟任と日向守(これとうひゅうがのかみ)の官職を与えられています。

なぜ「長篠の戦い」に参加していない明智光秀が九州の名族である姓と官職を与えられたのでしょうか。

それは「長篠の戦い」で何かしらの功績を残したからだと考えられます。

また長篠日記(ながしのにっき)と呼ばれる日記には明智十兵衛光秀(あけちみつひでじゅうべえ)の名前が記されています。

このことから明智光秀が「長篠の戦い」に参戦し、活躍していたことが伺えます。

では明智光秀はどのような活躍をしたのか。

史書には明智光秀が「長篠の戦い」においてどのような活躍をしていたのか記されていません。

ですが、現在750万部以上を売り上げている人気ベストセラーマンガ「センゴク」によれば、明智光秀が「長篠の戦い」で織田信長へ武田軍をおびき寄せて包囲。

その後包囲した武田軍を鉄砲による一斉射撃によって壊滅させる「方位殲滅作戦(ほういせんめつさくせん)」を提案しています。

明智光秀は鉄砲の名手であり、この鉄砲によって敵軍を壊滅させる射撃術の作戦を提案していたとしてもおかしくありません。

この作戦を明智光秀が「長篠の戦い」で提案していたからこそ、「長篠の戦い」の後、織田軍の中で名族の姓と官職を与えられる出世を果たしたのではないでしょうか。

武田信玄が明智光秀の戦術によって敗北!?

上記で「長篠の戦い」の敗北理由をご紹介しました。

武田信玄がもししっかりと後継者を武田勝頼に決めていれば、「長篠の戦い」で武田軍が惨敗することはなかったと思えます。

そして武田信玄の遺言が曖昧だったからこそ、武田信玄が鍛えに鍛え上げた歴戦の武田家の騎馬隊や兵士たち、更に彼が育て上げた武田家の猛将・知将が、明智光秀の戦術の前に敗北したと考えられるのではないでしょうか。

管理ネコ・ボスの一言




ボス「今回は武田信玄が明智光秀に敗北した原因を長篠の戦いを通して紹介したにゃ。

色々な因果関係が交わって、しわ寄せが長篠の戦いに来るなんて、武田勝頼もかわいそうな人にゃ。

武田勝頼は父・信玄よりも武田家の領土を拡大した当主であり、武田信玄がしっかりと彼を後継者として指名していれば、間違えなく戦国時代の大名の中で明主の一人として数えることができた逸材だったにゃ。

この事を考えると武田信玄が最後に犯した間違えは、大失敗だったにゃ。」

参考文献 講談社 センゴク天正記 
     新人物文庫 武田信玄謎解き散歩など

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