明智光秀(Wikipediaから引用) |
NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀。
明智光秀は織田信長に軍事の才能と外交能力などの才能を認められて、織田軍の司令官として活躍することになります。
しかし明智光秀は優れた才能を持っていながら越前(えちぜん)編で浪人生活をしていました。
「麒麟がくる」でも明智光秀は越前で雌伏の時を迎えるようですが、越前の地を治めていた戦国大名は朝倉家(あさくらけ)です。
朝倉家の当主は朝倉義景(あさくらよしかげ)と言います。
朝倉義景はどうして織田信長にも認められた優秀な明智光秀を登用しなかったのか。
今回は上記の点について5分で紹介していきたいと思います。
朝倉義景は本当に明智光秀を登用しなかったの!?
結論から言いますと朝倉義景は明智光秀を登用していました。
しかし朝倉義景は明智光秀を家老や重役と言った地位を与えたわけではありません。
どうして朝倉義景は明智光秀を重く用いらなかったのでしょうか。
この点についてご紹介していきたいと思います。
朝倉義景が明智光秀を出世させなかった理由とは
朝倉義景は明智光秀を登用したにもかかわらず、どうして出世させなかったのでしょうか。
その理由は明智光秀が朝倉家に仕える時期が悪かったのが原因です。
明智光秀が朝倉家に仕えた当時、朝倉義景が朝倉家の政治や軍事を取り仕切り、人事に関する事も自ら決定していました。
ですが、朝倉義景が自分で優れた人を探すのではなく、他人から勧められた人材を登用し、その人材をじっくりと見極める事をしませんでした。
そのため明智光秀は朝倉家で出世することができませんでした。
また朝倉義景自身が人材探索に熱心ではなかった事も明智光秀が出世できなかった原因の一つです。
では先ほど朝倉家に仕えた時期が悪かったから明智光秀は出世できなかったと言いましたが、いつなら明智光秀が朝倉家で出世する事ができたのでしょうか。
朝倉家の名家老・朝倉宗滴の時代なら出世できた!!
明智光秀が朝倉義景が取り仕切っていた時代ではなく、朝倉宗滴(あさくらそうてき)が生きている時代だったら、朝倉家でかなり出世できたかもしれません。
朝倉宗滴は朝倉義景に代わって朝倉家を仕切っていた人で、優秀な人材なら門閥や名族を気にせず、登用していました。
そのため明智光秀が朝倉宗滴が生きていた時代に越前へやってきていれば、朝倉家でかなり出世していたかもしれません。
「麒麟がくる」越前編ではどのように明智光秀が描かれるのか
「麒麟がくる」では斎藤道三が息子である斎藤義龍にやられてしまいます。
そのため明智光秀は美濃(みの)から脱出して越前へ向かうことになります。
「麒麟がくる」が史実の部分を採用して越前編を作り上げるのであれば、あまり明智光秀が活躍するシーンを作り出すことは難しいかもしれません。
ですが、今まで放映された「麒麟がくる」でも見て分かるようにかなりの脚色を加えて、盛り上げています。
また「麒麟がくる」越前編では柴田勝家(しばたかついえ)や近衛前久(このえさきひさ)など明智光秀とゆかりの深い人物が次々と登場するようです。
このことから「麒麟がくる」越前編でも明智光秀を中心にして面白く盛り上げてくれると思われます。
管理ネコ・ボスの一言
ボス「今回は「麒麟がくる」でも放映されるであろう越前の大名である朝倉義景がどうして明智光秀を重用しなかったのかについて書いてみたにゃ。
もし朝倉義景が明智光秀の優れた才能に気づいて、彼をもっと重職に就けていれば、朝倉家の未来も大きく変わったかもしれないにゃ。
その理由は明智光秀いるからにゃ。
明智光秀は足利義昭とは深い関係があり、足利幕府の家来である細川藤孝(ほそかわふじたか)とも仲がいいにゃ。
仮に明智光秀が朝倉家の重臣であれば足利義昭を旗頭にして京都へ兵を進めるべきと朝倉義景に進言していれば、朝倉家が京都へ一番乗りを果たしていたにゃ。
そして朝倉家が京都に一番乗りすることになれば、織田信長も京都へ進出することができず、かなり歴史に変化があったと思うにゃ。
このように歴史の「あの時こうしていればやああしていれば等」面白い事を考えるのも歴史を楽しむうえでの醍醐味じゃないかにゃ。
それじゃまたにゃ~」
参考文献 水藤真「朝倉義景」吉川弘文館など
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