武田信玄には名将と呼ばれる人物がたくさんいます。
例えば武田信玄を最も支えた四人の宿老。
彼らは武田信玄に直接意見を言える立場で、時には強く信玄に注意できる立場にいました。
彼らを四人を「武田四名臣」と呼び、武田信玄の家臣団の中でも特別な存在でした。
今回はこの「武田四名臣」に選ばれた四人と彼らの役割についてご紹介したいと思います。
5分でまとめていますので、スーパーでレジを待つ時間やファミレスなどで料理を待っている間に読んでみてはいかがでしょうか。
武田信玄に選ばれた武田四名臣の名将達
武田信玄は自らの手足のように信頼できる人物四人を選抜して四名臣に任命。
武田信玄に選ばれた四人の名将たちをご紹介したいと思います。
赤備えの騎馬隊を率いて戦った名将・山県昌景
山県昌景(Wikipediaから引用) |
武田四名臣の一人に選ばれたのは騎馬隊の鎧の色を全て赤色に統一した伊達者・山県昌景(やまがたまさかげ)
彼の騎馬隊は赤備え(あかぞなえ)と呼ばれ、彼の騎馬隊の強さは近隣の大名から恐れられていました。
鬼美濃・馬場信春
馬場信春(Wikipediaから引用) |
武田四名臣の一人・馬場信春(ばばのぶはる)。
彼は不死身の鬼美濃と呼ばれ、70回以上の戦に参加しますが、かすり傷一つ負うことなく戦場で活躍したとんでもない人です。
彼は不死身の鬼美濃と呼ばれ、70回以上の戦に参加しますが、かすり傷一つ負うことなく戦場で活躍したとんでもない人です。
武田の副将として活躍した内藤昌豊
内藤昌豊(Wikipediaから引用) |
武田信玄の四名臣に選ばれたのは武田信玄の副将として戦場で活躍した内藤昌豊(ないとうまさとよ)です。
なぜ武田の副将と呼ばれていたのか。
それは武田信玄の代わりに戦場の総大将として軍事を差配できる人材と言う意味で、武田信玄の弟・武田信繁(たけだのぶしげ)と内藤昌豊だけしか選ばれていませんでした。
それほど内藤昌豊は戦で武将を統率することに長けた人物であり、戦場で活躍するのは当たり前と武田信玄から一目置かれていた人物でした。
上杉家の前線拠点を守り抜いた鉄壁の名将・高坂昌信
武田四名臣最後の一人は武田家と上杉家が争い続けた北信濃(きたしなの)を上杉家から守り抜いた高坂昌信(こうさかまさのぶ)です。
高坂昌信は川中島の戦いなどで活躍します。
しかし高坂昌信は戦での活躍よりも、上杉家との前線拠点である海津城(かいづじょう)を守りきり、北信濃へ上杉軍を侵入させなかった功績を信玄から高く評価されていました。
その証拠として高坂昌信は武田家の中でも最大規模の兵力を動員することができる権限を与えられ、武田四名臣にも抜擢されています。
このことから武田信玄は高坂昌信をかなり高く評価し、信頼していたと言えるでしょう。
武田四名臣の役割分担とは
武田四名臣に選ばれた彼らはどのような役割を担っていたのでしょうか。
武田四名臣の役割は四分割された地域の情報収集が主な任務です。
そして武将ごとにどこに攻め込むか、攻め込む地域の次期、戦場で戦うことになる大名の戦法を分析してどのように戦うか、武田家が使う戦法の検討と注意などを信玄へ提案する役割を持っていました。
ではどの武将がどの地域の情報収集を行っていたのかとどのような役割を持っていたのかを紹介していきたいと思います。
山県昌景の情報収集担当地域と役割
山県昌景はどの地域の情報収集と担当を任されていたのでしょうか。
山県昌景は東海地方から近畿地方にかけての情報収集を任されていました。
そして彼は武田信玄に対していつ頃、戦闘を行うか信玄へ提案することを役割としてになっていました。
馬場信春の情報収集担当地域と役割
馬場信春はどの地域の情報収集と担当を任されていたのでしょうか。
馬場信春は北陸地方の情報収集を担当していました。
そして武田信玄に対して戦う相手に対してどのような戦法を用いて戦うべきなのかを信玄に対して提案する役割を持っていました。
内藤昌豊の情報収集担当地域と役割
内藤昌豊はどの地域の情報収集を担当していたのでしょうか。
内藤昌豊は関東地方の情報収集を担当していました。
そして内藤昌豊は武田信玄に対して、どの大名の領地へ攻め込むのかを提案する役割をになっていました。
高坂昌信の情報収集担当地域と役割
高坂昌信はどの地域の情報収集を担当していたのでしょうか。
高坂昌信は決まった地域の情報収集を担当するのではなく、山県昌景・馬場信春・内藤昌豊らが担当する地域へスパイを放って深く情報を集めてくる役割を担っていました。
そして高坂昌信は武田信玄に対して山県昌景・馬場信春・内藤昌豊らが提案してきた作戦を信玄と一緒に検討し、作戦を実施するのが難しいと思ったら中止を提案したり、信玄に対して直接注意を促す役割を持っていました。
このように武田四名臣は各々が役割を持って信玄の手足となって活躍していたのでした。
おまけ武田信玄の父・信虎の時代にも存在していた四名臣
武田信虎(Wikipediaから引用) |
武田信玄は武田四名臣を手足のように使っていましたが、信玄時代よりも前に武田四名臣が存在していました。
武田信玄の父である武田信虎も信玄と同じように四人の人物を選抜して、信玄時代の四名臣のような役割を与えてたそうです。
武田信虎時代の武田四名臣は板垣信方(いたがきのぶかた)・甘利虎泰(あまりとらやす)・飯富虎昌(おぶとらまさ)・小山田備中守(おやまだびっちゅうのかみ)の四人が選ばれていました。
管理ネコ・ボスの一言
ボス「今回は武田四名臣について紹介したにゃ。
武田四名臣は武田家になくてはならない存在で、信玄が生きている間にかなりの活躍をしていたにゃ。
武田家にはこれだけの名将が揃っていたにも関わらず、周りを名君と呼ばれる大名たちに囲まれていなければ、天下統一も夢ではなかったかもしれないにゃ」
参考文献 新人物文庫 武田信玄謎解き散歩など
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