「麒麟がくる」の主人公である明智光秀。
明智光秀は本能寺で主人である織田信長を殺害した事で、悪いイメージを持たれてしまった武将ですが、麒麟がくるではさわやか好青年として描かれています。
さて織田信長は本能寺の変で殺害されてしまいましたが、織田家の家来の中には織田信長が殺害された事で安心した武将が居たのをご存知でしょうか。
今回は織田信長が殺害されて安心した武将を5分で紹介したいと思います。
織田信長が殺害されて助かった滝川一益
滝川一益(Wikipediaから引用) |
織田信長は各地の大名を討伐するための司令官を5人任命しました。
関東地方から東北地方を討伐すための軍団長として得られたのは羽柴秀吉(はしばひでよし)のように小物から功績を積んで成り上がった滝川一益(たきがわかずます)です。
滝川一益は織田信長から関東から東北地方を討伐するための軍団長へ任命されると、上野(こうずけ)周辺の豪族達に兵力を出させて軍団の力を強化。
その後滝川一益は北条家に討伐された諸大名へ領土を返還するように命令したりと、かなり強い権力を持っていました。
史実によればその後、滝川一益は明智光秀によって織田信長が殺害されてしまうと北条軍に敗北し、命からがら自分の領地である伊勢(いせ)へ撤退することになります。
もし織田信長が本能寺の変で倒されなかったもしくは本能寺の変が起きなった場合、滝川一益は北条氏を討伐して、東北地方に割拠している大名達を手なずけることができたでしょうか。
多分滝川一益は北条家を討伐することができず、織田信長から怒られていたと思います。
そもそも滝川一益は関東・北陸を統べる司令官になりたくありませんでした。
その証左として滝川一益はとある人物へ「私は司令官よりも茶器を欲していたのだ」と愚痴をこぼしており、司令官として尽力するほどのやる気を持っていたとは考えにくいと思います。
これらの事から滝川一益は司令官として、北条家や東北地方の諸大名達を従わせることに失敗して織田信長から激怒され、もしかしたら領土を没収されて追放されていたかもしれません。
このように考えると滝川一益は本能寺の変で織田信長が倒れてホッとひと安心したかもしれませんね
織田家の宿老・柴田勝家もほっと一安心!?
織田信長の宿老として北陸地方の平定を任せられた柴田勝家(しばたかついえ)。
しばた柴田勝家は加賀一向一揆衆と激戦を繰り広げながら、織田軍の優勢な状況を作り上げることに成功。
しかし越後(えちご)の龍として戦国時代最強の大名として恐れられていた上杉謙信が北陸地方進出してきます。
柴田勝家は織田信長から羽柴秀吉や滝川一益、丹羽長秀などの諸将を援軍として迎えると、l上杉軍を迎え撃つため手取川を渡ります。
上杉謙信は織田軍が手取川を渡ってくると司馬勝家率いる織田軍へ攻撃。
柴田勝家は上杉軍を迎え撃ちますが、勝つことができず敗退してしまいます。
その後柴田勝家は織田信長が本願寺と和平した事で加賀で勢いを保っていた一向一揆衆を平定。
柴田勝家はその勢いのまま加賀・能登(のと)の反織田勢力を倒して、越中(えっちゅう)の上杉家の城である魚津城の攻略に成功。
このように柴田勝家は数々の目覚ましい武功を挙げていくことに成功しているので、織田信長から怒られるような事をしていないと思われます。
しかしこんなに頑張ってもニャンコの予想では柴田勝家は織田信長が生存していれば、領地没収もしくは殺害されていた可能性があったと思います。
その理由は織田家の筆頭家老として長年、織田信長に仕えていた佐久間信盛(さくまのぶもり)が追放されているからです。
織田信長は佐久間信盛を追放するときに手紙を出しています。
織田信長はこの手紙で「本願寺攻略をお前に任せても全然はかどらず、有能な家来を見つける努力もしない。さらにお前は俺が青年期の時、弟信行の味方をしていたな。
今までは忘れたふりをしていたけれどずっと俺は我慢していたんだ。これらの理由でお前の領地を没収して追放する。」と書き記しています。
実は柴田勝家も佐久間信盛と同じく信長の弟である織田信行(おだのぶゆき)の味方をして、織田家の当主につけようとしていた時期がありました。
織田信長が嫌な事を忘れない性格であったならば、柴田勝家も弟に加担した事を理由に領地を没収されたとしても、あり得ない事ではありません。
そのため柴田勝家も織田信長が明智光秀討ち取られたと知った時、主君の死を悼む心ももちろんあったと思います。
しかしほっと一安心した部分も心のどこかにあったのではないでしょうか。
織田信長が殺害された事で羽柴秀吉が一番安心していた!?
羽柴秀吉は織田信長を殺害した明智光秀を倒して、弔い合戦を成功させます。
しかし羽柴秀吉が織田信長がいなくなって一番安心し武将だとニャンコは考えます。
その理由は羽柴秀吉が独断で毛利家と講和交渉を行ってたからです。
羽柴秀吉は備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を水攻め。
羽柴秀吉はその後備中高松城を助けるためにやってきた毛利軍と決戦を行う準備をしていました。
ですが、羽柴秀吉は毛利軍と決戦準備をしながら、織田信長に毛利家を倒すために援軍に来てくださいと要請しつつも、毛利家と講和交渉も並行していたのです。
織田信長は羽柴秀吉が毛利家と講和交渉をしている事なんて一切知りません。
そのためもし織田信長が羽柴秀吉が独断で毛利家と講和交渉をしている事を知ったらどうなっていたでしょうか。
織田信長は毛利家を滅亡させることを羽柴秀吉に期待していたと考えられます。
そのため織田信長が本能寺で明智光秀に殺害される事無く生存していた場合、織田信長は自分の方針と全く真逆の事をしている羽柴秀吉に対して大激怒。
織田信長は羽柴秀吉の命をその場で奪ったり、領地を没収するようなことをすぐにしないと思いますが、後にこの時の彼のミスを取り上げて領土をすべて没収し、命を奪っていた可能性もあったかもしれません。
この点を考えると羽柴秀吉は織田信長がいなくなって一番安心した人物ではないでしょうか。
管理ネコ・ボスの一言
ボス「今回は織田信長が明智光秀によって本能寺で討たれた事で一安心した武将について、取り上げてみましたニャ。
ここで紹介した武将以外にも織田信長が居なくなって良かった~と安心している武将がいっぱいいたと思うにゃ。
しかし司令官クラスの武将で織田信長が居なくなって一安心した武将を挙げるならば、ここで紹介した武将達ではないかニャ。
やっぱり実力主義でおっかないトップを上にいる場合、働けば腹くほど給料も増えて豊かになっていく半面、仕事に対しての一つのミスが自分の命を縮めることになりかねないにゃ。
戦国時代は成り上がってトップになることもできるけど、やっぱり恐ろしい時代だったなとつくづく考えさせられるにゃね。
と言っても僕も野良で生きている頃は家族に捨てられて、目も見えない状態だったニャ。
そんな時に今のご主人様に拾われたから、何とかなったけど。
もし拾われていなかったことを想像するとここまで大きくなれなかったかもしれにゃいね。
話がだいぶ逸れてきたので、僕の出来事はまた今度いっぱいお話するにゃ。
それじゃまたニャ~」
参考文献 谷口克広「信長軍の司令官武将たちの出世競争」中公新書など
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