ニャンコです。
「麒麟がくる」は明智光秀が主人公と言うこともあり、彼と関係性の深い武将がたくさん登場。
織田信長や羽柴秀吉、斎藤道三などがすでに登場しております。
以前明智光秀と関係性の深い人物として長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を紹介しました。
長宗我部元親の記事はこちらです。
そして今回この記事では
- 「麒麟がくる」の主人公明智光秀と関係が深い長宗我部元親について知りたい」
- 「長宗我部元親って誰!?」
- 「長宗我部元親の事をほとんど知らない」
今回は明智光秀が生存していた時期までの長宗我部元親の経歴をサクッと紹介していきたいと思います。
「姫」と呼ばれた幼少期
長宗我部元親は長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)の長男として誕生。
長宗我部元親は後年四国の覇者として君臨するほどの戦上手でした。
ですが、幼少期の長宗我部元親は色が白い子供で、周りの大人や同年代の子供達に対しても挨拶しないでボンヤリしていたそうです。
そのため長宗我部元親は周りの大人から「姫和子(ひめわこ)」と軟弱者でバカにした渾名を付けて、かげで呼んでいたそうです。
長宗我部元親の父である国親は長宗我部元親を跡継ぎにしていいのか迷ってしまいます。
しかし長宗我部国親の不安を払拭する出来事が発生し、長宗我部元親を後継者に決めることになります。
長宗我部元親「姫」から「鬼」へ覚醒!?
長宗我部元親は「姫和子」とみんなにバカにされていた事もあり、初陣した年齢も23歳とかなり遅い時期になります。
長宗我部元親は初陣の際、槍の使い方を家来に尋ねます。
すると家来は「槍を敵の目と鼻の先に突き刺すように使うべし。大将は突撃したら駄目だぜ」とアドバイス。
色白の長宗我部元親は「ふむふむ。」と頷き、敵軍と戦っている長宗我部軍へ参加。
長宗我部元親は戦いに参加すると槍をもって敵陣へ突撃します。
長宗我部元親の無謀とも思える突撃を見た家来達はびっくりして元親に続いて出陣。
敵陣へ突撃した長宗我部元親は家来に教えてもらった通り槍を駆使して、敵兵を倒す功績を挙げます。
家来達は長宗我部元親の活躍を見て「姫和子」と呼ぶ事を止めて「鬼和子(おにわこ)」と畏怖と称賛を交えた渾名で呼び始めるのでした。
長宗我部国親は長宗我部元親がしっかりと功績を挙げた事を知って喜び、彼を長宗我部家の後継者として認めます。
その後父・国親が亡くなった事により、長宗我部元親が長宗我部家を受け継ぐことになります。
土佐統一へ向けてレッツゴー!!
長宗我部元親は父の跡を継ぐと近隣の豪族達を平らげて、土佐の統一を図るべく戦いを開始。
まず長宗我部元親は初陣で勝利を得た本山氏の勢力を削る為、長宗我部家独自の一両具足(いちりょうぐそく)制度を用いて、本山氏の勢力を攻撃します。
本山氏は長宗我部軍の攻撃に勝つことができずじりじりと勢力を減らしていきます。
長宗我部元親は朝倉城(あさくらじょう)と吉良城(きらじょう)に本山氏の勢力を追い込むと朝倉城へ総力を挙げて攻撃。
ですが、長宗我部元親の甥っ子である本山親茂(もとやまちかしげ)の奮戦により、敗北してしまいます。
しかし長宗我部元親の勢力が大幅に拡大された事と本山氏の勢力が激減した事がきっかけで、本山氏の勢力から長宗我部家へ寝返ってくる者が多くなります。
両面作戦を展開する長宗我部元親
長宗我部元親は本山氏の勢力激減により、攻撃目標を増加し土佐東部の安芸氏(あきし)の勢力へ侵攻を開始。
長宗我部元親と安芸氏の戦いは熾烈を極めますが、勝利をもぎ取り勢力を土佐東部にも勢力を拡大していきます。
この頃長宗我部元親の元へ斎藤利三の娘を嫁にもらいます。
また弟・貞親(さだちか)に名家である吉良氏を受け継がせます。
こうして長宗我部元親は着実に一歩一歩土佐統一へ向けて邁進していくのでした。
土佐の出来星
長宗我部元親は本山氏の朝倉城と吉良城を奪い、瓜生野(うりゅうの)城へ追いつめることに成功します。
本山氏は瓜生野城に籠城して長宗我部元親と抗戦する構えを見せますが、本山氏の当主が亡くなってしまいます。
本山氏は長宗我部元親の甥っ子親茂が跡を継ぎますが、長宗我部軍に敗北。
この結果、本山氏は戦う力を失ってしまい長宗我部家に降伏することになります。
長宗我部元親は本山氏の降伏を受け入れ、土佐東部の安芸氏を滅ぼし土佐統一を果たすことになります。
織田信長との同盟
長宗我部元親は土佐統一を果たす前、斎藤利三の親戚の娘を奥さんとして迎え入れます。
長宗我部元親はこの伝手を使って斎藤利三の君主である明智光秀と繋がりを持ちます。
長宗我部元親は明智光秀へ「明智光秀殿の君主である織田信長殿と同盟がしたい」とお願いします。
明智光秀は長宗我部元親のお願いを聞いて、織田信長へ「長宗我部元親が同盟を結びたいとおっしゃっています」と進言。
織田信長は長宗我部元親との同盟を許し、明智光秀に一任します。
更に織田信長は長宗我部元親の息子へ信長の名前の一字である「信」の文字を与えます。
こうして長宗我部元親は織田信長と同盟を結ぶことに成功し、次なる目標へと邁進するのでした。
長宗我部元親の四国統一作戦
長宗我部元親は土佐を統一し、織田信長と同盟すると三好家が統治している阿波(あわ)・讃岐(さぬき)・伊予(いよ)へ向かって進撃します。
しかし長宗我部元親の侵攻作戦はうまくいきませんでした。
その原因は三好家の十河存保(そごうまさやす)・三好長康(みよしながやす)ら武将達の徹底抗戦に手を焼いた事に加え、猛将・吉良貞親を亡くしてしまった事が原因で中々上手くいきませんでした。
ですが、長宗我部元親の苦しい状況を好転するチャンスがやってきます。
三好家分裂
長宗我部元親を苦しめた三好長治。
三好長治は阿波の国の豪族や民衆達へ法華宗に改宗するように政策を打ち出します。
三好長治のこの政策は豪族や民衆から大反発を受け、阿波の国は大混乱に陥ります。
更に三好長治のこの制度に反発した阿波守護・細川真之(ほそかわさねゆき)は国人衆と長宗我部元親に協力を要請。
長宗我部元親は細川真之へ協力する約束をします。
細川真之は長宗我部元親・国人衆の力を借りて三好長治と対決。
三好長治と細川真之は軍勢を率いて決戦を行い、細川真之が三好長治を討ち取ることに成功します。
阿波のほとんどを手に入れる
長宗我部元親は三好長治が細川真之に討ち取られた事をきっかけに阿波へ向けて総攻撃を開始。
まず長宗我部元親は阿波の重要拠点である白地城(はくちじょう)を手に入れた事を契機にして、次々と阿波の国の城を奪います。
その後長宗我部元親はうどんの国である讃岐の十河軍と戦い大勝利。
長宗我部元親が十河軍に勝利した事で讃岐の国人衆である羽床氏など多くの豪族や国人衆達が降伏してきます。
こうして長宗我部元親は讃岐・阿波のほぼ全域を手に入れることに成功します。
難航する伊予攻略
長宗我部元親は阿波・讃岐をほとんど手に入れ、次なる目標である伊予地方制圧へ向けて出陣します。
伊予(いよ)地方の東部は簡単に制圧することができました。
しかし伊予中部は毛利家の力を借りた河野氏(こうのし)が長宗我部家に頑強に抵抗していた為、すぐに攻略することが難しい状況になってしまいます。
また伊予南部は長宗我部元親の代わりに派遣していた家来が戦の途中で討ち取られてしまった為、こちらも思うように攻略が進まない状態でした。
四国制覇戦は中々長宗我部元親の思うように進まない状況の中、同盟相手である織田信長から手紙が届きます。
四国統一を放棄するべし
織田信長は四国の長宗我部元親と土地を接するようになった事などの理由から、長宗我部元親へ「四国統一を諦めて、土佐・阿波の半国を与えるから、残りの地域から撤退するべし」と命令を口調で要請。
長宗我部元親はこの手紙を見て怒りを覚えますが、長宗我部元親と織田信長を繋いだ明智光秀から何度も「上様の要請に従ってくだされ。」と説得を受けます。
長宗我部元親は明智光秀の説得を何度も受けた事によって怒りを抑えて、織田信長の要請に応えるため、軍勢を阿波から少しずつですが撤退していきます
(※石谷家文章から発見された内容をもとに記事を作っています。)
長宗我部元親は織田信長の要請をOKしたにもかかわらず、なぜ軍勢を阿波全域から全軍撤退させなかったのでしょうか。
その理由は織田軍の動きをしっかりと見極めるためです。
もし阿波全域から全軍を撤退させてしまえば、織田信長が長宗我部元親を討伐する軍勢を四国へ送り込んできた際、対応できなくなってしまうからです。
現に織田信長は長宗我部元親を討伐するため四国渡航軍を大阪近辺に集結させていました。
そのため長宗我部元親は織田信長の要請に応えるスタンスを取りつつも、織田信長との対決も辞さない姿勢を見せます。
苦境にいきなり立たされた長宗我部元親ですが、大事件が勃発した事で苦境を脱することになります。
本能寺の変で救われる
1582年。
明智光秀は本能寺に宿泊していた織田信長へ謀反。
明智光秀は織田信長を本能寺で殺害し、織田信長の息子である織田信忠(おだのぶただ)も殺害します。
この結果織田家は求心力を急激に低下させることになります。
長宗我部元親は四国討伐をもくろんでいた織田軍が本能寺の変で織田信長が殺害された事によって四国討伐作戦を中止された事を知ります。
この結果長宗我部元親は何とか危機的状況を脱出することに成功し、四国統一へ向けて作戦を継続することになるのでした。
まとめと長宗我部元親のエピソード紹介
今回は長宗我部元親について色々とご紹介させていただきました。
ここでは明智光秀が本能寺の変で織田信長を殺害した所までを紹介しておりますが、その後長宗我部元親はどうなったのでしょうか。
ここでは簡単に本能寺の変以降の長宗我部元親について紹介したいと思います。
長宗我部元親は織田信長が居なくなった事で、四国統一作戦を継続。
しかし織田家のライバル達を蹴落として、織田家の領地を引き継いだ羽柴秀吉(ここからは豊臣秀吉へ変更)が四国討伐軍を派遣してきます。
長宗我部元親は豊臣秀吉の四国討伐軍に激しく抵抗しますが、勝つことができず降伏し、土佐一国を安堵されることになります。
その後長宗我部元親は豊臣家の天下統一事業を助けるべく島津討伐戦・北条討伐戦に出陣し武功を挙げます。
こうして豊臣家でしっかりと活躍した長宗我部元親ですが、関ヶ原の戦いの前年に病を完治することができず亡くなってしまうのでした。
享年61歳だったそうです。
豊臣政権でも長宗我部元親は四国統一戦で磨いた軍略を駆使して軍功を稼ぎ、内政面においても跡継ぎである長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)と一緒に法律を制定し、国の安定を目指した政治を行っていきます。
このように長宗我部元親は四国統一こそ果たせませんでしたが、内政・軍略共に優れた戦国大名でした。
さてここからは長宗我部元親のエピソード紹介をご紹介して締めくくりたいと思います。
長宗我部元親は家来達に優しい君主でした。
その証左として長宗我部元親は家来から「どうして四国を統一するのか。このまま土佐一国でも平和に暮らすことはできたんじゃないでしょうか。」と質問を受けます。
すると長宗我部元親は「いいや。土佐一国だけでは家来達を満足させることはできないし、領民や家来達を平和に暮らさせることが出来ない。だから私は領民と家来達が平和で楽しくくさせるために四国統一を果たすのだ」と述べるのでした。
長宗我部元親のこのエピソードは部下や領民に優しい大名でした。
史料では強くて家来や領民思いの長宗我部元親ですが、「麒麟がくる」ではどのような人物として描かれるのか。
渋くて知的な俳優さんに長宗我部元親を演じてほしいなと思っているニャンコでした。
参考文献 「長宗我部元親と四国」吉川弘分館など
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