今回は戦国時代の革命児であり、「麒麟がくる」の主人公である明智光秀の君主・織田信長について紹介したいと思います。
皆様は織田信長と言えばどのような性格をイメージしますか。
多分苛烈で、厳しい性格の人とイメージするかと思います。
それも織田信長の性格の一面を表していると思います。
でも実は織田信長は義と情に厚い一面を持っていたのです。
今回は
- 「苛烈じゃない織田信長ってホント!?」
- 「織田信長に義や情に厚いエピソードなんてあったの??」
- 「学校で教えてくれない織田信長の一面を知りたい!!」
と思っている方へ歴史が詳しくないニャンコがわかりやすく素人目線で書いた記事になります。
5分で紹介していきますので、暇つぶしにご覧ください。
「尾張のうつけ者」織田信長
織田信秀(おだのぶひで)は織田信長が誕生すると彼の教育係として重臣・平手政秀(ひらてまさひで)を任命。
平手政秀は織田信長の教育係に任命されると彼を立派な人物にする為、色々なカリキュラムを作成していきます。
その後平手政秀は一生懸命作成したカリキュラムを織田信長に施そうとします。
ですが、織田信長は平手政秀の元から脱走。
織田信長は領内に出ると悪ガキ達を引き連れて合戦の真似事をして日が暮れるまで遊んでいたそうです。
また違う日にも織田信長は家を脱して、戦国時代に流行っていた茶筅ちゃせん)をして、歩きながらまんじゅうを食べて領内を散歩していたそうです。
平手政秀は素行の悪い織田信長を矯正するため、何度も彼を呼び出して説教。
しかし織田信長は平手政秀の説教を受けても気にすることなく、次の日もその次の日も遊んですごしていたそうです。
平手政秀はそんな織田信長を見て、彼を見捨てることなく一生懸命教育係の務めを果たすべく奮闘する毎日を過ごしていたそうです。
葬儀で暴走織田信長
織田信長の素行の悪さに苦しんでいた平手政秀ですが、織田家の中で数少ない織田信長の理解者でした。
また織田信長にはもう一人理解者が居ました。
その人物は織田信長の父である織田信秀です。
織田信秀は織田信長の素行の悪さを気にすること無く、彼を織田家の後継者として決めていました。
織田信長の理解者は平手政秀と織田信秀だけで、織田信長の母や尾張領内。織田家の家来からの評判はすごく悪く「うつけ者」と呼ばれていました。
しかし織田信長は気にしませんでした。
そんな織田信長の日常に大事件が発生。
それは数少ない織田信長の理解者である父・織田信秀が亡くなってしまったのです。
織田信長は悲しみのあまりかなり落ち込んでいたそうです。
織田家の家来も織田信秀が亡くなった事を悲しんで、彼の死後すぐに葬儀を執り行います。
織田信長は葬儀が始まっても参加しませんでした。
ですが、葬儀開始から数分後、織田信長は茶筅で袴も履かずにいきなり登場して、織田信秀の仏前に向かって抹香を投げつけて去っていきます。
織田信長の暴走を見た織田家の家来は彼に失望してしまいます。
また養育係である平手政秀も彼の行いにびっくりしてしまうのでした。
お墓を立てお供え物をして平手政秀を祀った情に厚い織田信長
織田信長はその後、二人目の理解者である平手政秀も失ってしまいます。
平手政秀の死因は織田家中が不穏になっていた事や織田信長との仲が悪くなってしまった事などが挙げられます。
平手政秀は命が尽きる前、織田信長に対して「素行を改めてくだされよ」と遺言を残して亡くなったそうです。
織田信長は平手政秀の遺言を守って素行を改めた…わけではなくいつも通り過ごしていました。
しかし織田信長は平手政秀の死には大分ショックが大きかったらしく、彼の為にお墓を建立。
また織田信長は柿を見つけたは平手政秀のお墓まで持って行き、お供え物として挙げていたそうです。
神仏なんて一切信じない性格の持ち主である織田信長ですが、自分を理解してくれた人物に対しては手厚い弔いをしていました。
このように織田信長は情に厚い性格でありました。
織田信長と斎藤道三
尾張と領地を接している美濃(みの)。
美濃の主は油商人から成り上がって大名へ上り詰めた斎藤道三です。
斎藤道三は尾張の織田信秀の嫡男である織田信長へ自分の娘である帰蝶を嫁がせることを決めます。
こうして帰蝶は織田信長の元に嫁ぐことになります。
そして織田信長と斎藤道三は義理の息子と義理の父親の関係を持つことに。
斎藤道三は帰蝶と織田信長が婚約した後、正徳寺(しょうとくじ)と呼ばれるお寺で会見。
織田信長はこの時多数の鉄砲隊を護衛に連れてきていました。
斎藤道三は織田信長の用心深さ・最新鋭の鉄砲隊を多数所持していた事などを鑑みて、「うつけ」と呼ばれていた織田信長の評価を改めて、彼が才能のある人物であることを認めます。
更に斎藤道三は正徳寺に随行してきた家来に対して「オレの息子達は全員あやつの家来になるだろう」ととんでもない事を発言するのでした。
後にこの斎藤道三の発言は半ば的中することになります。
斎藤義龍の怒り!!
斎藤義龍は父・斎藤道三の隠居後に美濃の国主として君臨。
斎藤道三は息子である斎藤義龍が嫌いで、自分の次男である孫四郎と末弟である喜平次を可愛がっていました。
斎藤義龍も父に嫌われている事を知っていましたが、自分の弟たちが父に気に入られている事に不満を持っていました。
斎藤義龍は父に持っていた不満がある噂がきっかけに爆発してしまいます。
その噂とは斎藤義龍を廃嫡して弟である孫四郎(まごしろう)を嫡男にして、美濃の国主にするという噂が流れてきます。
斎藤義龍はこの噂を聞いて弟・孫四郎と喜平次を殺害。
斎藤道三は息子である義龍が弟たちを殺害した事に驚いて、大桑城(おおくわじょう)へ逃亡します。
父と息子が激突!!
斎藤義龍は弟たちを殺害した後、父・斎藤道三を倒すため挙兵。
斎藤道三も息子・斎藤義龍によって息子達が殺害された事に怒り、兵を募集します。
しかし斎藤道三の元に集まった兵力はたったの2500人でした。
それに対して斎藤義龍の元には15000人の大兵力が集結。
普通に考えれば斎藤道三が2500人で15000人を相手にして野戦を仕掛けても勝つことなんでほぼ不可能です。
ですが、斎藤道三は籠城する事を選ばず、逃亡する選択肢も捨てて、斎藤義龍軍を倒すために出陣します。
斎藤義龍は父が出陣してきた事を知って、15000人の兵力を引き連れて道三率いる軍勢を倒すために出陣するのでした。
こうして両軍は長良川(ながらがわ)ではがしく激突することになります。
理解者を助けるために出陣する織田信長
織田信長は自分の理解者となってくれている斎藤道三が息子である斎藤義龍に滅ぼされようとしている事を知って、兵力をかき集めて出陣します。
織田信長は斎藤道三を救っても自分の利益にほとんどなりませんが、どうして斎藤道三を救うために出陣したのでしょうか。
その理由は明らかになっていません。
そのためニャンコの推測になりますが、織田信長が義をもって斎藤道三を救いに行ったと考えられます。
義は親族や身内よりも他人を優先にすると言う意味です。
織田信長は一切自分の利益になりませんが、身内の誰よりも自分の事を理解してくれた斎藤道三を救うために出陣したと思います。
ですが、織田信長は斎藤道三を救うことができず、斎藤義龍の軍勢によってボコボコにされてしまい、命からがら尾張へ撤退することになってしまうのでした。
織田信長は合理性を重んじる性格でしたが、利益と合理性を度外視して斎藤道三を救う義の心も持っていた人物であったのではないでしょうか。
管理ネコ・ボスの一言
ボス「今回は織田信長の情と義に厚い性格を持った人であったことを紹介しましたニャ。
戦国時代に義の心を重んじた人物は越後(えちご)の上杉謙信が有名ですが、織田信長も意外と義の心を持った人物ニャ。
更にここからは戦国時代とは全然関係ないけど、僕の大好きなアニメ・まどマギに登場する暁美ほむらも義の心を持った人物だったニャ。
暁美ほむらはクラスメイトから浮いた存在だったけど、鹿目まどかが声をかけてくれたことがきっかけで、学校で初めて友達を作ることができたニャ。
暁美ほむらは鹿目まどかが魔法少女として、活躍している姿を見て、自分も魔法少女になる事を決意するにゃ。
その後暁美ほむらはまどかの為に自分の命を削ってタイムリープを繰り返して、まどかを救う旅に出ることになるニャ。
ネタバレになるから詳しい事を話すことができないけどニャ。
でも魔法少女まどか☆マギカはとっても面白いので、ぜひ一度は見てほしいと思うニャ。
話が脱線したけど義の心は戦国時代でもアニメでも関係なく大切な事なんだニャ!!って覚えてくれればいいにゃ。
それじゃ~また次回お会いしましょう~」
参考文献 小和田哲男「斎藤氏」(戦国大名370家出自事典)など
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