ニャンコです。
今回は毛利元就の息子である吉川元春についてご紹介したいと思います。
吉川元春を一言で表すなら「無敗の強さを誇った人」です。
この記事では
- 「吉川元春ってどんな人なのか知りたい方」
- 「戦国時代に興味がある人」
- 「外出れなくて暇だから、暇つぶしにちょっと読んでみようかな」
途轍もなく強い武将であった吉川元春について5分ほどでご紹介していきたいと思います。
良かったらこちらも読んでね。
以前小早川隆景はイケメンのスパルタ教師!?黒田官兵衛との逸話も一緒にご紹介の記事を書きました。
最初で最後の敗北・雪合戦
吉川元春は毛利元就の次男として誕生します。
吉川元春は生涯で76戦して64勝を勝利で治め、残りの12戦はすべて引き分けにした戦国時代における無敗の戦歴を誇った武将です。
無敗の吉川元春ですが、生涯に一度だけ敗北した経験があります。
それは弟・小早川隆景との雪合戦です。
雪が積もったある日、幼い吉川元春と小早川隆景は一緒に雪合戦を行います。
最初の一回は吉川元春が小早川隆景をボコボコにして大勝利を得ます。
ドヤ顔で毛利元就の元へ行って報告。
吉川元春に負けた小早川隆景は悔しさをにじませて、再び吉川元春に勝負を挑みます。
この時小早川隆景はしっかりと対策を練って、吉川元春に勝つ作戦を打ち立てていました。
吉川元春は弟へ「いいぜ。もう一回やろう」と挑戦を受けて立つのでした。
しかし結果はしっかりと対策を練った小早川隆景の勝利で幕を閉じます。
二人とも疲れ果ててしまい、雪合戦はここでおしまいになりますが、無敗の吉川元春が唯一敗北を喫した戦いでもありました。
「少年・吉川元春」駄々をこねて初陣を果たす
吉川元春は12歳になった頃、父・毛利元就が尼子氏の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)へ出陣すると知ります。
すると吉川元春は戦いに連れて行ってくれるように父へ何度もお願いします。
しかし毛利元就は「お前はまだ12歳で若すぎる。家に居ろ」と言って連れて帰るよう家来に命令。
吉川元春は出陣に連れて行ってくれない事を知ると大泣きしてしまいます。
家来は吉川元春を不憫に思ったのか慰めようとすると「触るな!!」と刀を取って家来に突きつけ、先行している父の元に走っていくのでした。
毛利元就はこのことを聞いて「しょうがない。連れていくか」と吉川元春の同行を認めます。
その後吉川元春は吉田郡山城での戦いで暴れまわって功績を挙げ、見事な初陣を飾るのでした。
とにかく強い吉川元春
吉川元春は初陣でしっかりと功績を残した後、毛利家の数々の戦に参加。
陶晴賢(すえはるかた)と毛利軍が激戦を繰り広げた「厳島の戦い(いつくしま)」での戦いでも毛利家の勝利に貢献する活躍をします。
更に吉川元春は尼子氏が籠城する月山富田城(がっさんとだじょう)を落城させて、宿敵を倒します。
他にも吉川元春は中国国内に残存している反毛利勢力との戦いで、幾度も勝利をおさめ毛利家の勢力拡大に寄与。
戦に強い吉川元春は父・毛利元就が隠居した後、毛利隆元・毛利輝元の二人の毛利家当主を軍事面で支えていきます。
また弟・小早川隆景は毛利家の政治・外交面を担当することになります。
そして吉川元春と小早川隆景は「毛利の両川(もうりりょうせん)」と呼ばれ、一緒に毛利家を支えるべく奮闘していくのでした。
戦だけでなく文章家としても知られる吉川元春
吉川元春は上記でご紹介した通り、戦を行わせれば無敵の強さを誇っていた人物ですが、実は文章家としての一面を持っていた人でした。
吉川元春は南北朝時代の軍記物「太平記」をことのほか気に入っており、この本をすべて書き写しておりました。
このことから戦以外にも知識もあり、筆まめな人物であったことが伺えます。
吉川元春が書き写した「太平記」は「吉川本太平記」と呼ばれ、現在まで伝わっています。
毛利家の危機!!
毛利家は足利義昭の要請がを受けて、大勢力である織田信長との戦いを始めます。
吉川元春も織田軍と戦い勝利を得ていましたが、段々と状況が悪くなっていきます。
そして弟・小早川隆景の領地である備中高松城にまで織田軍の軍勢が攻めてくるのでした。
備中高松城はしっかりと防備を備えておりましたが、羽柴秀吉の水攻めに合って水没。
吉川元春は毛利輝元・小早川隆景らと一緒に備中高松城を救う援軍として向かいますが、手も足も出せない状況でした。
羽柴軍撤退で危機を逃れる
備中高松城を救うことができず、毛利家にとって厳しい状況が継続している最中、織田軍を率いていた羽柴秀吉が和睦に応じて、撤退していきます。
毛利家はこうして危機を脱出することが出来ましたが、将兵たちは「羽柴を追撃するべきだ」と息巻いていました。
なぜ毛利家の将兵達は危機的状況を脱出したにもかかわらず、このような事を言うのでしょうか。
それは織田信長が明智光秀によって討ち取られ、羽柴秀吉は敵中で孤立するのを恐れ撤退したからです。
吉川元春と小早川隆景、毛利輝元の三人は会議を開きます。
この時吉川元春は「約束を破って追撃するのは武士の恥だ」と小早川隆景と一緒に主張。
この二人の意見を採用した毛利輝元は将兵達をなだめて、追撃を諦めさせるのでした。
まとめと吉川元春のエピソード紹介
今回は吉川元春の強さについてご紹介してきましたが、今回の記事を下記にまとめましたのでご覧ください。
- 無敗の強さを誇る
- 唯一勝てなかったのは弟・小早川隆景
- 筆まめな人
- 幼少期は暴れん坊
- 毛利家の軍事面を担当
ここからは吉川元春はお嫁さんを娶る時に面白いエピソードが残っていますので、ご紹介しておしまいにしたいと思います。
父・毛利元就は吉川元春が17歳の時、吉川元春に奥さん迎えようと考えます。
その前に毛利元就は吉川元春の考えを知る為、家来を吉川元春の元へ向かわせます。
吉川元春は父から誰の娘を嫁にしたいのかと家来から尋ねられると「熊谷信直(くまがいのぶなお)を娘を娶りたい」と述べます。
吉川元春の言葉を聞いた家来は驚いてしまいます。
その理由は熊谷信直の娘が超絶ブスだったからです。
そのため家来は「元春殿。熊谷信直の娘はブスですよ。もっとかわいい人を奥さんにもらったほうが良いじゃないですか」と提案。
すると吉川元春は「バカモノ。容色で奥さんを決めるのは良くない。熊谷信直の娘がブスなのはわしも知っている。熊谷信直もブスの娘をもってがっかりしているだろう。その娘をワシが娶れば、熊谷信直の喜びも大きく、きっと毛利家に忠誠を尽くしてくれるであろう。安芸(あき)国内で熊谷信直に匹敵する武将はいないから、熊谷信直を味方につけることが出来れば、毛利家にとってこれほど大きなことは無い」と述べます。
こうして吉川元春は政略的な考えの元、熊谷信直の娘を娶り、熊谷信直の心をわしづかみにするのでした。
しかし吉川元春は政略的な考えの元結婚しますが、夫婦仲はかなり良好で4男2女の子宝に恵まれるのでした。
奥さんにも優しい家庭的な一面を持った吉川元春ですが、最後は癌に蝕まれながらも、豊臣秀吉の強い要請を受けて九州征伐へ出陣。
その後病気が悪化して亡くなってしまうのでした。
ここまで見ていただきありがとうございました。
また次回もお楽しみに
参考文献 日本の大名・旗本のしびれる逸話 東邦出版など
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