「麒麟がくる」明智光秀と木下藤吉郎は本当にライバルだったの!?本当にライバルだったのか調べてみた!?

2020年4月6日月曜日

明智光秀との関連性の深い人物 麒麟がくる

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こんばんわ。

ニャンコです。

「麒麟がくる」では次週ついに木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)が登場するそうですね。

木下藤吉郎と言えば「麒麟がくる」の主人公である明智光秀とライバルと言われていますが、本当にライバルだったのでしょうか。

ここでは
  • 「麒麟がくるに登場する木下藤吉郎と明智光秀と本当にライバルだったの!?」
  • 「木下藤吉郎と明智光秀の関係性は!?」
  • 「二人は何でライバルだったの??」
などの疑問を思っている方へ歴史に詳しくないニャンコが素人目線でわかりやすく明智光秀と木下藤吉郎の関係をまとめた記事になります。

今回は木下藤吉郎と明智光秀が本当にライバル関係だったのか調べてみましたのでご覧ください。

明智光秀と木下藤吉郎は似た者同士


明智光秀と木下藤吉郎は似た者でした。

その理由は二人とも縁故も無く、織田家の叩き上げの将校だったからです。

明智光秀は織田信長に仕えはじめ、一応500石ほどもらって仕官しました。

そのため厳密言えば、明智光秀は木下藤吉郎のように織田信長の草履取りから、成り上がったわけではありません。

しかし明智光秀が織田信長に仕えた頃、木下藤吉郎は美濃(みの)攻略戦で功績を挙げており、一定数の兵士を動かすことを織田信長に許されていました。

そのため明智光秀が織田信長に仕えた時は木下藤吉郎も明智光秀と同じぐらいの地位にいたと考えることができるのではないでしょうか。

そのため明智光秀が織田信長に仕えた当初はまだ同僚であったと思われます。

その証左として織田信長が足利義昭を連れて京都を制圧してから数か月後、木下藤吉郎と明智光秀はそろって京都治める奉行に任命されてるからです。

明智光秀の台頭


明智光秀はその後、金ヶ崎の退却戦(かねがさきのたいきゃくせん)での活躍や比叡山(ひえいざん)焼き討ちの作戦の実行部隊として功績を挙げた事がきっかけとなり、近江(おうみ)志賀郡(しがぐん)と呼ばれる場所に所領を織田信長から与えられます。

明智光秀は織田家の家来として仕えてから数年で国持大名として領土をもらうことになる異例の出世を果たします。

明智光秀が織田家の中で大名に出世した頃、木下藤吉郎はまだ大名の位を与えられていません。

このことから考えれば明智光秀が木下藤吉郎をライバルとして考えていたとこの時点でも考えられません。

とんとん拍子に出世を果たす明智光秀と木下藤吉郎


明智光秀はその後数々の戦で功績を挙げていき、どんどん領土も増えていくことになります。

木下藤吉郎(明智光秀が大名になった頃には木下藤吉郎ではなく、羽柴秀吉に改名しているが、ここではこのまま木下藤吉郎で行きたいと思います)も明智光秀に負けないくらい、北近江(きたおうみ)の大名である浅井長政(あざいながまさ)を倒す戦で活躍し、北近江に領地を授かり、大名へ出世。

こうして織田家の中でとんとん拍子に出世していく明智光秀と木下藤吉郎。

更に明智光秀は丹波(たんば)地方のを平定する司令官として織田信長から任命されます。

また羽柴秀吉も明智光秀よりも少し遅れますが、中国地方の覇者として有名な毛利家討伐軍の司令官として任命。

この時点でも二人はまだライバル視することなく織田家の両翼として織田信長の天下統一のために尽力して働いていました。

では明智光秀は木下藤吉郎をライバル視しなかったのでしょうか。

そんなことは無いと思います。

明智光秀はある事件をきっかけに木下藤吉郎をライバル視したかもしれないと思われます。

四国の外交方針が変更!?


明智光秀は家老で遠い親戚である斎藤利三(さいとうとしみつ)の兄妹が長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の奥さんとして嫁いでいました。

そのため明智光秀は四国の外交を織田信長から任されることになります。

この出来事はまだ織田信長の勢力が小さい時で、織田信長も長宗我部元親に四国を任せる方針でした。

しかし織田信長は領土が拡大し、長年の宿敵であった本願寺(ほんがんじ)も降伏し、残る敵が少なくなってきたことがきっかけで、長曾我部元親を討伐する方針に変更。

なぜ織田信長はいきなり四国の外交方針を変更したのでしょうか。

四国の外交政策が突然変わったのは何で!?

織田信長は今まで四国に対して長宗我部元親にすべて任せる方針を一変して、四国討伐に方針をがらりと変えてしまいます。

明智光秀は織田信長の突然の外交方針の変更に驚いたと思いますのが、どうして四国に対する外交の方針が変更されたのでしょうか。

その前に四国の外交変化が起きる前の木下藤吉郎についてお話します。

木下藤吉郎は四国に近い淡路島を黒田官兵衛(くろだかんべえ)や仙石秀久(せんごくひでひさ)を派遣して平定。

その後木下藤吉郎は家来である黒田官兵衛に命令を下し、四国の長宗我部元親と敵対関係にあった三好家の支援を行っています。

なぜ木下藤吉郎は織田信長が四国を長宗我部元親に任せるとの外交方針を下しているにもかかわらず、長宗我部元親に敵対している勢力に力を貸していたのか。

ここからはニャンコの推測になりますので、ご了承ください。

先を見通した木下藤吉郎


木下藤吉郎は織田信長の四国に対する外交施策を知っていたにもかかわらず、長宗我部元親と敵対している勢力に力を貸した理由として先を見通していたからだと思います。

木下藤吉郎は中国地方の毛利家が近く滅亡するであろうことを予感していたのだと思います。

なぜならば備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)の包囲も成功し、備中高松城の援軍としてやってきていた毛利家の全軍は木下藤吉郎率いる織田家の軍勢と大して変わらない程しかありませんでした。

ここで木下藤吉郎はもし毛利家が滅亡した後、自分の働く場所が無くなったら、織田信長に捨てられてしまうかもしれない。

そのような事を思ったのかもしれません。

だから木下藤吉郎は明智光秀が四国の外交を担当している事を知っているにもかかわらず、織田信長の四国の外交方針を転換させるため、長宗我部元親と敵対している勢力に力を貸し、織田信長に対して「四国を長宗我部に任せるのは危ういと思います」などと言って織田信長を長宗我部元親を討伐するように仕向けたのではないでしょうか。

これはあくまでもニャンコの推測なので、当てにはできませんのでご了承ください。

四国の外交政策の転換時にはじめて木下藤吉郎をライバル視!?



もし上記で説明したニャンコ説があっていたとすれば、明智光秀は四国の外交政策が木下藤吉郎の横やりによって変更された事を誰かに聞いて知ることになります。

そして明智光秀はその時点で木下藤吉郎を初めてライバル視したのではないでしょうか。

もしくは木下藤吉郎に対してライバル視よりも怒りもしくは憎しみを持つことになったかもしれません。

こればかりは木下藤吉郎もしくは明智光秀の立場になってみないと分かりませんが…。

まとめ

さてここで明智光秀と木下藤吉郎はライバルだったのかについてニャンコなりまとめたいと思います。

結論から言えば、木下藤吉郎と明智光秀はライバル関係になっていなかったと思います。

しかしニャンコ説の織田信長が今まで明智光秀が担当していた四国の外交方針が、木下藤吉郎の横やりによって変化したのであれば、この時点から明智光秀が木下藤吉郎をライバル視したと思われます。

管理ネコ・ボスの一言




ボス「今回は明智光秀と木下藤吉郎がライバル関係にあったのかを紹介したニャ。

もしかしたらニャンコの説はバカにできない説かもしれないニャ。

その理由としては四国の長宗我部元親が本能寺の前に斎藤利三宛に手紙を出していた事が判明したからだニャ。

もしこの他にも織田信長が突然四国の外交政策の転換に関する資料が見つかるようになったら、もしかしたらニャンコ説が正しいってこともあるかもしれないニャ。

でもさっきもニャンコも言っていたけれど、あくまで素人目線の仮説なので、本気にしないほうが良いにゃ。

「麒麟がくる」では木下藤吉郎が登場するけれどこの先明智光秀と木下藤吉郎はどのように描かれるのかも、この記事を読んで参考にしながら見てみると面白いと思うニャ。

それじゃ皆さんまた次回でお会いしましょうにゃ~

さらばニャ~」

参考文献「検証本能寺の変」吉川弘文館など




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