ニャンコです。
今回は「麒麟がくる」に登場するであろう毛利家の人物・小早川隆景(こばやかわたかかげ)をご紹介したいと思います。
小早川隆景を一言で表現するなら「頭の良いイケメンスパルタ教師」です。
この記事では
- 「戦国時代に興味がある!!」
- 「戦国時代の事を簡単に知りたい
- 「気軽に暇つぶしになる読み物ないかな」
頭が良くてイケメンでスパルタ教師ってなんだかよく分からない方もいいと思いますので、分かりやすく5分ほどで小早川隆景について本能寺の変までをご紹介していきたいと思います。
どうして毛利じゃなくて小早川なの!?
小早川隆景は毛利元就(もうりもとなり)の三男として誕生しますが、どうして小早川隆景は毛利隆景じゃないのでしょうか。
毛利元就の三男であれば、小早川隆景ではなくて毛利隆景の方がしっくりとくると思いませんか。
その理由は毛利元就の兄の長女が小早川家の支族へ嫁いでいた事が原因でした。
毛利元就の兄の長女が嫁いでいた小早川家は戦で当主が亡くなってしまいますが、跡継ぎが居ない状態でした。
毛利元就は小早川家から三男の隆景を跡継ぎにもらいたいと要請を受け、OKを出します。
こうして毛利隆景は小早川家の当主になったため、毛利の姓を捨てて、小早川の姓を名乗ることになります。
その後小早川本家の当主を兼ねることになり、小早川家の支族をまとめた真の小早川家の当主になるのでした。
話がややっこしいので、簡単にまとめると下記になります。
- 毛利隆景ではない理由
- 毛利家から小早川家の当主になったから
以上になります。
イケメン少年だった小早川隆景
小早川隆景は父である毛利元就の元を12歳で離れることになります。
戦国時代ではよくある光景です。
小早川隆景は父・元就の話を聞いて毅然とした態度で納得したと思われますが、心中は悲しかったのではないかなと思います。
そんな小早川隆景ですが、少年時代はイケメンだったそうです。
毛利元就の君主である大内家の当主から可愛がられていたそうです。
小早川隆景の小話を挟みながら次のお話へ進みたいと思います。
厳島の戦いで大活躍する小早川隆景
小早川隆景は小早川家の当主となり、毛利元就を支える一族として戦に出陣し、活躍していきます。
小早川隆景の名前が一躍有名になった戦いは「厳島(いつくしま)の戦い」です。
この戦いで小早川隆景は水軍を率いて参戦し、大内家の当主を殺害して謀反を起こした陶晴賢(すえはるかた)率いる水軍をコテンパンにのして、毛利家の勝利に大きく貢献するのでした。
その後も小早川隆景は自慢の水軍を駆使して大内家を滅ぼした戦いでも活躍し、毛利家にとってなくてはならない存在になっていきます。
毛利を支える小早川隆景
毛利元就が隠居を決意し、毛利家の当主へ小早川隆景の兄である毛利隆元(もうりたかもと)が就任します。
小早川隆景は毛利隆元を次男吉川元春(きっかわもとはる)と一緒に支えていくことになります。
吉川元春は毛利家の軍事面を担当することになり、小早川隆景は毛利家の外交と政治面を担当。
吉川元春と小早川隆景は毛利の両川(りょうせん(二人の名前に川の字が入っているため))として、毛利隆元を補佐していく事になります。
しかし毛利隆元は病にかかって急死してしまいます。
そのため毛利隆元の嫡男である毛利輝元が毛利家の当主として選ばれる事になります。
小早川隆景と吉川元春は隆元時代と変わらず、毛利輝元を支えていく事を決意するのでした。
イケメン・小早川隆景はスパルタ教育を施す
小早川隆景は成長してからも近隣に聞こえたイケメンでした。
そんなイケメン・小早川隆景は幼少期に毛利家の当主となった毛利輝元の先生でもありました。
小早川隆景の教育方法は厳しく、毛利輝元が何か間違えると怒鳴り散らして注意。
小早川隆景は毛利輝元を怒鳴り散らすだけでなく、ぶったり叩いたりしながら教育していたそうです。
毛利家の当主である輝元に対して小早川隆景はどうしてこんなに厳しい方法で教育していたのか。
それは毛利輝元に一人前の大名になってほしかったからです。
戦国時代はボンクラな人物が大名として家を引っ張て行く事になると家来からなめられてしまい、家中をまとめることが出来なくなってしまいます。
また近隣の大名からも攻撃を受けてしまい、滅亡してしまう可能性がありました。
小早川隆景は毛利輝元を厳しく教育する事で、家中をしっかりとまとめ、近隣の大名からも甘く見られない立派な大名になってほしくて、厳しく教育していたんです。
小早川隆景は父のいない毛利輝元の父代わりになって彼を厳しく育てていたんですね。
織田信長との戦い
毛利家は尼子氏を滅ぼし、国内の反抗勢力を討伐して着実に勢力を拡大していきます。
そんな中、東の尾張(おわり)を拠点にして大勢力として力をつけてきた織田信長。
毛利家は織田信長が大友宗麟(おおともそうりん)と手を組んで攻撃を仕掛けてきたりして度重なる嫌がらせを受けていました。
織田家の嫌がらせを受けているこの状況の中、足利幕府の将軍である足利義昭(あしかがよしあき)が織田信長に京都を追放されて、毛利の領土へやってきます。
足利義昭は毛利輝元へ「どうか織田信長を討伐してくだされ」とお願いしてきます。
毛利家では足利義昭の意見について会議を開きます。
小早川隆景と吉川元春は「織田信長と戦うべきだ」と主張。
毛利輝元は二人の意見を採用し、織田信長と戦う決意を固めます。
こうして毛利家は織田信長との戦いを開始。
吉川元春と小早川隆景は山陰・山陽それぞれ担当地域を決めて織田軍と戦う作戦を採用します。
山陽方面を担当することになった小早川隆景は早速行動を開始。
織田信長の水軍を破って本願寺を救援
小早川隆景は織田信長の攻撃に苦しめられていた本願寺軍を救援するため、自慢の水軍に兵糧を載せて出陣させます。
織田信長は毛利水軍が本願寺救援のためにやってきた事を知ると、水軍を出陣させて対決させます。
両軍は木津川口で戦いを開始しますが、毛利水軍が織田水軍ボコボコにして、打ち破り本願寺の救援に成功するのでした。
毛利家滅亡の危機
毛利家は織田軍に対して優勢な状況を作り出すことに成功します。
ですが、織田信長に少しずつ押されていってしまいボロボロになってしまうのでした。
小早川隆景も自慢の水軍が織田信長の新アイデアが詰まった鉄鋼船の前に敗北してしまいます。
更に毛利家と同盟を結んでいた武田家は織田家に滅ぼされ、本願寺も織田信長と和睦を結んでしまします。
そして頼りにしていた上杉謙信が亡くなった事で、織田信長に対抗できる勢力が毛利家一国だけになってしまいます。
そんな毛利家は頑張って織田家と戦いを継続していましたが、どんどん領地を失っていき、小早川隆景の本拠地である備中にまで攻めてきます。
毛利家は備中高松城を重要拠点として防備を固めていきますが、羽柴秀吉の水攻めによって備中高松城が水浸しになってしまい、戦いを継続する事が難しい状況に。
毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の三人は毛利家の総力を率いて備中高松城へ救援にやってきますが、手も足も出せず、水浸しになっている高松城を眺めているだけでした。
和睦への道
小早川隆景は毛利家が織田家に勝つのが難しいと判断し、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を羽柴陣営に送り込み、織田家と和睦できるか探りを入れます。
小早川隆景は和睦の条件として「五か国を譲るから備中高松城の将兵全ての命を救いたい」と提案。
ですが、羽柴方は「五か国の割譲と備中高松城の城主・清水宗治(しみずむねはる)の切腹が必要だ」と言ってきます。
毛利家と羽柴家は和睦条件締結の為、何度も使者を往来させますが、中々決まることができず、月日だけが経過していくのでした。
本能寺の変で和睦が成立
小早川隆景は羽柴家との和睦成立を急いでいました。
その理由は武田家を滅ぼした織田信長が援軍にやってくるとの噂があったからです。
しかし和睦の道は遠く毛利家と羽柴家との条件が中々調整できない状況でした。
そんな中、いきなり羽柴方が態度を変えて「三か国の割譲と清水宗治の切腹すれば和睦に応じる」と知らされます。
なぜ羽柴家はいきなり条件を緩和させたのか。
その理由は織田信長が明智光秀によって殺害されてしまったからです。
羽柴秀吉はこの事実を毛利家に隠して和睦の条件を引き下げてもいいから毛利家と戦闘状態を止めたいと考えておりました。
小早川隆景はこの事実を知らず、羽柴方の条件を受け入れます。
その後小早川隆景は織田信長が殺害された事を知ります。
毛利家の将兵たちは「羽柴を追撃して倒すべし」と息巻きます。
小早川隆景と吉川元春は「和睦の誓いを立てて、裏切るのは武士にあるまじき行為だ」と毛利家の将兵たちをなだめ、羽柴秀吉との約束を守り抜くのでした。
こうして毛利家は滅亡を食い止めることに成功するのでした。
まとめと小早川隆景の逸話
今回は小早川隆景についてご紹介しました。
小早川隆景をまとめると下記になります。
- 少年時代はイケメンだった
- 毛利輝元を立派に育てるためにスパルタ教育を行っていた
- 政治力に優れ色々な人物からも認められていた
- 交渉術にも長けていた
- 人物観察眼にも優れる
等です。
ここからは小早川隆景の逸話をご紹介しておしまいにしたいと思います。
小早川隆景は羽柴秀吉の軍師として活躍していた黒田官兵衛と仲良しでした。
ある日小早川隆景は黒田官兵衛に対して「あなたは頭の回転がいいから即断即決で物事を決めるのが長所だけど、その反面後悔する事も多いはず。しかし私はあなたのように頭の回転は良くなくて、じっくりと物事を考えてしまうタイプだ。この点は私の欠点であるが、その反面後悔する事も少ないよ」と述べております。
どちらがいいとは言えませんが、互いの長所と短所を公平な目で比較する事が出来る人物鑑定にも優れた武将でした。
黒田官兵衛は小早川隆景が亡くなった事を知って非常に落ち込んで「この日本で賢人がいなくなった」と高い評価を下しています。
黒田官兵衛だけでなく豊臣秀吉も小早川隆景を高く評価。
豊臣秀吉は「西日本の政治をすべて任せる事が出来る人物は小早川隆景しかいない」と述べております。
とんでもなく小早川隆景を高く評価しておりますが、この高い評価がうなずける逸話がありました。
小早川隆景は豊臣家から伊予の国の領地としてもらいます。
小早川隆景は伊予の国を見事に統治し、領内の争いごとや盗みなどが一切起きず平穏な国だったと宣教師ルイス・フロイスが述べております。
豊臣秀吉が小早川隆景を高く評価したのもあながち間違えではないのかもしれませんね。
ボス「ここまで読んでくれてどうもありがとうニャ~
最近家で暇して何しようか迷っているそこのあなた!!
良かったらこのボスのブログを読んで暇つぶししてくれたらうれしいにゃ~。
それじゃまたにゃ~」
参考文献 新人物往来社「小早川隆景のすべて」など
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