毎日お外に出れずボスと一緒にゴロゴロ生活を楽しんでいるニャンコです。
このゴロゴロ生活を脱却するため、ペンタブでイラストを書いていますが、中々上手くならないのが今の悩みです。
さて今回ご紹介するのは「麒麟がくる」で活躍している太原雪斎(たいげんせっさい)をご紹介したいと思います。
太原雪斎を一言で表現すると「外交の達人」です。
この記事では
- 太原雪斎とはどんな人なのか
- 今川義元とどのような関係があるのか
などを歴史に詳しくないニャンコが素人目線でまとめてみた記事になります。
それでは早速ご紹介していきたいと思います。
今川義元の教育係
太原雪斎は京都の建仁寺(けんにんじ)の僧侶で修業をしておりましたが、今川家から呼ばれた事がきっかけで駿河(するが)へ向かうことになります。
太原雪斎は駿河へ到着すると今川家の当主である今川氏親(いまがわうじちか)と会見。
今川氏親は太原雪斎へ「5男の先生になってくれないか」とお願いを受けます。
太原雪斎は「承知しました。」とポツリと述べて、今川氏親の5男・芳菊丸(ほうぎくまる)の先生になるのでした。
太原雪斎は芳菊丸が頭の良い子供出る事をすぐに見抜きます。
そして太原雪斎は芳菊丸に本格的な仏門の修業を受けさせるため、京都へ連れて行くのでした。
芳菊丸は京都へ行き太原雪斎から様々な事を学び、僧侶となる儀式である得度を経て承芳と名前を変えます。
その後太原雪斎と承芳は駿河へのお寺に移ることになります。
立て続けに今川家当主が亡くなる
太原雪斎と承芳の二人が駿河へ帰ってきた頃、今川家当主であった今川氏親が亡くなってしまいます。
今川氏親の跡を継いだ今川氏輝(いまがわうじてる)も病気にかかって亡くなってしまいます。
今川氏輝には跡継ぎとなる子供がいなかった為、今川氏親の4男である玄広恵探(げんこうえたん)が跡継ぎとして今川家のトップに立とうします。
しかし玄広恵探が今川家のトップになることを反対した勢力が登場します。
今川義元がトップへ
それは太原雪斎と今川氏親の5男であった承芳でした。
承芳は僧侶をやめて武将へ転職。
承芳は武将へ転職した際、名前を変えて今川義元と名乗ります。
こうして今川家のトップの座を巡って戦いが勃発。
今川義元の勢力は玄広恵探の勢力に劣勢でしたが、太原雪斎の知略や他の家来達の奮戦によって、玄広恵探を倒すことに成功します。
こうして今川義元が今川家のトップの座に就くのでした。
ライバル武田家との同盟成立
今川義元は自分の先生であった太原雪斎を信頼し、軍事と政治のアドバイザーに任命。
太原雪斎は早速今川義元の信頼に応える為、甲斐(かい)の大名である武田家との同盟成立に奔走します。
太原雪斎はまず長年争っていた武田家との関係を良くする為、武田家から今川義元の奥さんを迎えます。
その後太原雪斎は武田家のトップ武田信虎(たけだのぶとら)の長男である武田晴信(たけだはるのぶ後の武田信玄)へ今川家の遠縁の公卿である三条さんの娘をあっせん。
こうして今川家は太原雪斎の活躍によって、ライバルとして敵対関係にあった武田家と同盟を成立せることに成功するのでした。
軍事面でも活躍する太原雪斎
太原雪斎の活躍は外交面だけでじゃなく、軍事面でも異彩を放ちます。
太原雪斎は松平広忠(まつだいらひろただ)が大叔父から岡崎城を追放されて、助けを求めてきます。
すると太原雪斎は今川義元の許可を得て軍勢を率いて出陣。
太原雪斎は岡崎城を占拠していた松平信定(まつだいらのぶさだ)を倒して、松平広忠へ城を返してあげるのでした。
織田軍を撃破
今川義元は松平広忠へ「君の息子である竹千代(たけちよ)君を人質に連れてきなよ」と相談。
松平広忠は今川義元の相談を承諾して、松平竹千代(後の徳川家康)を駿河へ向けて旅立たせるのでした。
しかし途中で竹千代は強奪されてしまい、織田家へ連れて行かれてします。
織田家当主である織田信秀(おだのぶひで)は松平広忠へ「俺の味方になれよ」と説得。
ですが、松平広忠は織田信秀の言う事を拒否して今川家に忠誠を尽くす姿勢を崩しませんでした。
織田信秀は松平広忠の説得に失敗したため、三河松平家の本拠地である岡崎城を奪うべく出陣します。
今川義元は太原雪斎を総大将にして松平家を救援するべく出陣。
こうして織田家と今川・松平の連合軍は小豆坂(あずきざか)で衝突することになります。
太原雪斎は織田軍よりも高所に陣取り、戦の途中で伏兵を展開させたことで、織田軍を撃破することに成功するのでした。
この戦いを「小豆坂の戦い」と後世呼ばれます。
このように太原雪斎は軍事・外交などに才能を発揮して今川義元を盛り立てていくのでした。
ついでにこの戦いの地、松平竹千代君は無事に織田家から今川家へ渡って、人質生活を過ごすことになります。
戦国時代の三強の同盟に尽力!!
太原雪斎と言えば戦の才能もありましたが、何と言っても「外交面」の才能に抜きん出ています。
太原雪斎は武田家から迎えた今川義元の奥さんが亡くなってしまった事がきっかけで、武田家との同盟が一度切れてしまいます。
太原雪斎はすぐに今川義元の娘を武田晴信の嫡男である武田義信の元へ嫁がせます。
ですが、太原雪斎はここで一つ新しい事を思いつきます。
それは武田と今川の同盟に長年戦いを続けてきた北条家も加えてしまえば、戦国時代最強の同盟になるんじゃないかと言う事です。
太原雪斎は今川義元の許可を得て、武田家と北条の間を調整し、三国の同盟成立に向けて行動を開始。
太原雪斎の活躍によって三国同盟が成立することになります。
更にこの三国同盟は武田家・北条家・今川家の三家の間で誰も損をしないような公平な同盟関係を成立してしまいます。
戦国時代の同盟は持ちかけた方が大体損をするのが定番です。
例えば北条家は後に上杉家と同盟関係を構築します。
この時、北条家から上杉家へ同盟を持ち掛けた為、北条家は上杉家へ人質や領地など様々な物と引き換えにしなくてはなりませんでした。
このように戦国時代の同盟はほとんどが対等な同盟関係を築く事は不可能でした。
しかし太原雪斎は誰も損をしない対等な同盟関係を成立させてしまいます。
このことから太原雪斎の外交の才能がとてつもなく優れていた事がお分かりになったと思います。
こうして戦国時代の三強と言われる武田家・北条家・今川家の三国同盟が締結されるのでした。
この三国同盟締結の翌年に太原雪斎は亡くなってしまいます。
享年60歳でした。
まとめと太原雪斎の逸話紹介
今回は太原雪斎の記事を書きましたが、さっそくまとめをしていきたいと思います。
- 太原雪斎は今川義元の先生であった
- 外交・軍事面に優れた才能を持った人
- 戦国最強の同盟締結に奔走
- 松平竹千代を織田家から取り戻した人
などではないでしょうか。
では最後に太原雪斎の逸話を一つご紹介して終わりにしたいと思います。
太原雪斎は松平竹千代が今川家の人質であった頃、彼にも色々と教えていた説が残っています。
その証左竹千代から元服して徳川家康になった頃「太原和尚が居なくなってから、今川家の政治がどんどん乱れて行った」と高く評価しております。
もし太原雪斎が徳川家康の先生となって彼に色々と教えている説が正しいのであれば、今川義元・徳川家康二人の英雄の先生だった事になりますね。
英雄を育てた太原雪斎を今回はご紹介しました。
ボス「今日とんでもないニュースが入ってきたにゃ。
それは「麒麟がくる」の放映が中止になったとの知らせだったニャ。
俺は毎週土曜日ご主人様と一緒に麒麟がくるのハイライトを見るのが楽しみだったから、とっても寂しいニャ。
一応「麒麟がくるの」放映が中止だけで、打ち切りではないから何とか続いてほしいニャ。
と思う今日この頃でしたニャ。
それじゃ~またニャ」
参考文献 講談社 戦国外伝「桶狭間戦記」など
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